四国遍路170万歩の旅
−定年遍路道中記−





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1日目 3月21日(日) 「発願、お遍路さんと呼ばれた」  薄曇
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1番 霊山寺
2番 極楽寺
3番 金泉寺
4番 大日寺
5番 地蔵寺
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板野町・森本 旅館

1番霊山寺(9:30〜10:05)…2番極楽寺(10:15〜45)…3番金泉寺(11:15〜35)
…4番大日寺(13:00〜30)…5番地蔵寺(14:00〜30)
…板野町・森本旅館15:30着     <14.2キロ 19,008歩> 

 車内がざわつき始め、そっとカーテンをあけると鳴門大橋を走っていた。雲の合間から朝日がのぼりはじめ、海峡には小さな渦潮が見えた。
徳島駅に定刻6時45分到着。駅地下のマックで洗面・食事をして高徳線板野行8時24分の発車を待つ。 
通勤通学で賑わい始めた駅に入り、一番はずれの高徳線のホームに行く。2両連結の列車が停まり、学生やウォーキングの中高年の男女が大勢乗っていた。

 8時42分、板東駅到着。降りた人は4人、ベテランらしい初老のお遍路さんとあと2人のご婦人は地元の人だった。
まだカーテンの閉まった駅前の商店街を抜けて、遍路宿の建ち並ぶ角まで来ると、正面に小さく霊山寺の山門が見えた。山門までくると大型バスやマイクロバスやマイカーで駐車場は満車、境内は遍路姿の人たちでごったがえしていた。車で回るお遍路が多いと聞いてはいたが想像以上だった。

 山門をくぐる「遍路用品の販売は本堂で」と書かれた立て札があったが、駐車場脇の遍路用品の売店に行った。売店はたくさんの遍路用品が所狭ましに詰まれ、次から次へと新人お遍路さんが訪れ忙しくしていた。
 納経帳、納札、経本を購入。納経帳や経本は軽く大きくないものを選んだ。白衣は道中着の上着だけ、菅笠は雨の日を考えビニール付とした。
杖と白衣と菅笠 納経帳 納札

 金剛杖は細く軽いものを選び、般若心経が書いてない一番安いものを選んだ。真言宗の数珠は宗派の違う私は最後まで迷ったが、今回は遍路の作法に従おうと思い購入した。
 ろうそくや線香、ライターは東京の100円ショップで買ってきた。遍路用品は他にもあるが、余計なものを勧められることもなく、気持ちよく私の希望の品をてきぱきと揃えてくれた。(主な遍路用品)

 支払いの際「菅笠は歩き遍路さんにはお接待させていただきます」といわれ、まずは最初の感激、これがこれからいただく最初の善意だった。あとで一緒になったお遍路さんが、本堂の売店はとても熱心(商売上手)で、遍路用品の全て、使わないものまで揃えさせられたとこぼしていた。

 10枚の納札に住所・名前を書いて準備完了。白衣に着替え、菅笠を被ろうとしたら、寺務所の人が「笠が逆さまですよ。この梵語の一文字が前に来るように」とマジックで笠の内側に○印をつけてくれた。
 白衣を着て、菅笠を被り、金剛杖を右手に持つと格好だけは一人前のお遍路さんが誕生した。

 「歩き遍路さんはこのノートに出発日、住所・氏名を記入し、御礼参りに来た日に右欄に朱筆で日付を記入してください」と言われた。ぱらぱらとめくると、60歳代の人が一番多く、次いで50歳代だが20歳代の人が意外に多いのに驚いた。
朱筆のまだない人は区切り打ちか、まだ何処かを歩いているのか、それとも途中で挫折したのか。
 大勢の人がそれぞれの願いを込めて歩いていた。私は4月30日の日付を入れる予定で、今日がその第1日目だ。
霊山寺

 9時半、あらためて山門にまわり、電池を入れ替えた万歩計をセットした。記録はこの山門を入る時から開始し、40日後に再び山門をくぐるまでの歩数・距離とし、1日は朝宿を出た時から夕方宿に入る時までとした。

 山門で一礼、非日常の世界に第1歩を踏み出した。手水で身を清めてから本堂に入る。誰も教えてくれるわけでなし、ガイドブックに書いてあった作法を思い出しながら、ろうそくとお線香をあげ、納札を納め、数珠を左手にかけ、杖を身体にたてかけて経本を広げた。(札所の作法)
あ!お賽銭を忘れた。全ての動作がぎこちないのが自分でもわかる。お経を読んでいるが声が出ていない。そのうち数珠がずり落ち、杖がころんだ。汗をかきかき、初めての参拝が終わった。
 「経は耳で読む」と聞くが「門前の小僧云々」でやるしかないと、次の大師堂では遍路ツアーの団体に紛れこんで声を出してみた。

 再び山門で一礼、記念撮影を撮って10時5分、極楽寺に向けへんろ道を歩き始めた。暑くもなく寒くもなく絶好の日より、歩き始めてすぐに「お遍路さーん」と声をかけながら女性が駆け寄って来た。ビックリして振り向くと「お遍路さん、お元気でいってらっしゃい。これはお接待です」とお菓子やあめの入った紙袋を差し出した。
 どうしてよいかわからず、ただただ「ありがとうございます」といただいて歩きはじめた。初めて「お遍路さん」と呼ばれ、こそばゆい気持ちとうれしい気持ちが入り混じっていた。

1番 霊山寺
2番 極楽寺
3番 金泉寺
4番 大日寺
5番 地蔵寺
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板野町・森本 旅館
 「2番極楽寺(ごくらくじ)」は日本で初めて「第九」を演奏したドイツ俘虜収容所跡地前を通って約10分、鮮やかな山門をくぐると広々とした境内の奥の小高いところに長命杉がそびえていた。
 団体遍路が3組いてお経をあげていたが、この一行は先達と呼ばれる公認ガイドがお遍路の心構えを説き、先達の先導で経文を唱える。読み方も余り慣れていない様子で、講ではなく巡礼ツアーの感じだった。
 ところどころに杖置きがあったが、同じような杖を大勢の人が置くわけで、忘れる人や間違える人がいても当たり前。寺務所の人が「杖の裏側に名前を入れておいた方がいいですよ」といわれた意味がわかった。

 極楽寺から「3番金泉寺(こんせんじ)」までは売店の人から「近道ですよ」と教えられたへんろ道を行く。お墓の真ん中を通る道で、ちょうど春のお彼岸でどの墓もしきびが飾られ家族揃ってお参りに来ていた。
 お墓を通り抜けるとバタッと人影がなくなった。へんろみち保存協力会(以下保存協力会)のマークを頼りに、畦道や里山沿いの山道を約30分歩くと金泉寺に着いた。
 大師伝説には水が湧く話が多いが、金泉寺も水不足の訴えを聞いた大師が井戸を掘ったところ霊水が湧き出したとのこと、顔が映れば3年長生きすると言い伝えがある「黄金の井戸」をそっとのぞきこむ。映った、一安心。へんろ道から来たらいきなりお寺の境内に入ったので山門は出る時に一礼をした。

 「4番大日寺(だいにちじ)」までは約5キロ、のんびり歩いて約1時間半、お腹がすいてきたが食べるところが何処にも見当たらない。江戸時代の道しるべを見ながら踏切を渡ると、道は讃岐海道とクロスした。
 讃岐海道は源義経が平家討伐に大坂峠を越えて屋島に向かった道だった。

1番 霊山寺
2番 極楽寺
3番 金泉寺
4番 大日寺
5番 地蔵寺
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板野町・森本 旅館
 「5番地蔵寺(じぞうじ)」の奥の院には五百羅漢があり、おだやかな顔の大師像と喜怒哀楽の表情豊かな等身大の200体の羅漢が納められていた。奥の院からの石段をくだると大きなイチョウの木のある地蔵寺本堂の脇に出た。
納経所では先ほど追い越されたバスツアーのあとになりしばらく待たされた。
地蔵寺 大師像

 団体はバスが着くと同時に添乗員が全員の分の納経帳や掛け軸を抱えて納経所に駆けつけて来る。お参りが終わるまでにご朱印をいただき、すぐ次の札所に行くため時間を惜しんでいた。
 気の利いたお寺さんや団体添乗員は「個人の方お先にどうぞ」と譲ってくれるが、団体同士がぶつかるような混雑した日は、彼らも時間を惜しんで、なかなか譲ってもらえず、かなりの時間を待たされる。
 本堂・大師堂とお参りした後に納経所に行くのが作法だが、旅の途中から、待ち時間のロスを少なくするため、団体バスと同時に着いた時は一目散に納経所に駆けつけ、添乗員より1歩でも早く着き、先にご朱印をもらいゆっくりと参拝した。

 今日の行程はここまで、森本旅館が目の前だがまだ14時半、お腹がすいたし宿に行くには早すぎるので食堂を探しに行った。角に「うどん・お好み焼き」の看板を見つけ中に入ると、入れ違いに自転車で追い越された女性2人が出てきた。春休みを利用して折りたたみ自転車でお遍路さんを始めた女子大生だった。

 玄関で同年齢のお遍路さん2人と一緒になった。ひとりは伊予三島市の山野さん66歳、夫婦で2回マイカーで回ったあと1人で歩き遍路を始め、2回目の今回は番外札所を含めて地元の三角寺から順打ちとのことだった。
もうひとりは去年60歳で勤めをやめたという上尾市の千田さん、野宿の予定だったが金泉寺で山野さんに誘われ一緒に宿に来たといっていた。

 おかみさんは杖をてきぱきと洗い部屋に案内するとすぐ床の間に立ててくれた。
 夕食までの時間、山野さんから遍路の心得や荷物の工夫、食堂・宿の情報などを教えてもらった。実に詳しく、心配ごとのいくつかが解けてきた。
 順番に呼ばれ風呂に入り、17時半に食堂で夕食。大きな旅館だが今日は7人で、70歳代の夫婦と初めての歩き遍路という61歳の松山市の谷野さん、もうひとりは歩き遍路3回目という年齢不詳の女性・福岡の対馬さん。ベテランの山野さんや対馬さんの遍路話を聞きながら初めての遍路宿の食事を終えた。
 老夫婦を除いてあとの5人とはこの先何度かお会いすることになる。天気予報では明日の徳島地方は雨だった。19時半疲れて眠りについた。

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