啄木はせめて結婚するまえにいちど会いたいといった希望を持っていたが、遂に実現はしなかった。翌年智恵子からの賀状を手にしたとき、苗字の変わった彼女の葉書を見て、結婚したことを始めて知ったのである。
啄木は瀬川深あての書簡で、「今度初めて苗字の変わった賀状をもらった。異様な気持ちであった。『お嫁には来ましたけれども心はもとのまんまの智恵子ですから』と書いてあった。」という。この文面は智恵子の心中を考える上でかなり重要だと思う。というのは、新婚の女性が、関心のない男にそんな文句を書くはずはないからである。こうした彼女の記述からも啄木にまったく関心がなかったと言えるだろうか。
この文句から私は、結婚した後も、啄木との縁を失いたくないといった彼女の心中が読めると考えるのである。普通結婚すれば、付き合っていた他の男との文通は夫の手前からも控えるのが自然だと思うが、智恵子は堂々とその心中を啄木に伝えてきている。これは啄木に無関心どころか、これまで智恵子の隠れた部分に光をあててみると、啄木に対する清純な思慕が見えてくるのである。
啄木の片恋などとは断定できないのであって、この二人は相思相愛であったと見るのが正しい判断であると私は考えている。智恵子は、大正十一年十一月産褥熱で死去したが、まだ三十四歳の若さであった。彼女の遺品の中に、啄木が贈った、詩集「あこがれ」と、歌集「一握の砂」が手文庫の中に、大切に残されていた。
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詩集「あこがれ」の表紙 |
筆者提供 |
そして歌集の裏表紙に一枚の葉書が貼り付けてあった。無論啄木の葉書である。その文章の一部に紙をはって読めなくしていたのである。
この葉書全文は次のように書かれていた。「心ならぬ御無沙汰のうちにこの年も暮れむといたし候。雪なくてさびしき都の冬は夢北に飛ぶ夜頃多く候。数日前、歌の集一部お送りいたせし筈に候ひしが、御落手下され候や否や、そのうちの或るところに収めし二十幾首、君もそれとは心付給ひつらむ、塵埃の中にさすらふ者のはかなき心なぐさみを、あわれとおぼし下され度、御身にはその後いかがお過ごし遊ばされ候ひしぞあと七日にて大晦日といふ日の夜。」
この葉書は明治四十三年十二月二十四日に出されたものである。この書面の中で、「君もそれとは心付給ひつらん」と「さすらふ者のはかなき心なぐさみをあわれとおぼしめし下され」の二箇所を読めないように紙を貼って隠していたのである。
前の文を隠したのは彼女を歌った二十二首が智恵子だとわかるからであろう。この歌群は啄木のせつないまでの気持ちが遺憾なく詠まれているので、家人に読まれた場合、平生啄木には無関心といった態度をとっていた智恵子としては、彼との関係に疑いを持たれることを恐れたのであろう。しかし後者の文句は見られたとしても別段支障はないように思うが、智恵子がなぜ隠そうとしたのか、私にはよくわからない。
普通の考えからすれば、もし家人に見られて都合が悪いと思うのであれば、紙など貼って隠すといった小細工をするよりも、その葉書を捨てればいいことである。しかし智恵子は残していた。この心情を私は重視しなければならないと考える。こうした陰の部分を考えなければ簡単に啄木の片恋だなどとは言えないのである。
啄木と交際のあった女性は多いが、彼にすれば、一段下の対象としてつきあっていたに過ぎないが、同等の立場で相手と交際を持ったのは、妻節子以外では智恵子ただ一人であった。
函館時代の親友、岩崎正に送った書簡で、「逢ったときには普通の話ばかりして、そして互ひに仄かに心に思い合っていたい。死ぬまで仄かに思われていたい。」「そして一生の間、その女の暖かい情を思い出して胸深く秘めておくべきである。」これは啄木にも智恵子にも共通の感情であったと思う。
最後に啄木が智恵子に捧げた歌を記してこの項を終えたいと思う。
歌集「一握の砂」より
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歌集「一握の砂」初版復刻版 |
(財)石川啄木記念館より |
・いつなりけむ
夢にふと聴きてうれしかりし
その声もあはれ長く聴かざり
・ 頬の寒き
流離の旅の人として
路問ふほどのこと言ひしのみ
・ さりげなく言ひし言葉は
さりげなく君も聴きつらむ
それだけのこと
・ 世の中の明るさのみを吸ふごとき
黒き瞳の
今も目にあり
・ かの時にいひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど
・ 山の子の
山を思ふがごとくにも
かなしき時は君を思へり
・ 病むと聞き
癒えしと聞きて
四百里のこなたに我はうつつなかりし
・ 君に似し姿を街に見る時の
こころ躍りを
あはれと思へ
・ かの声をも一度聴かば
すっきりと
胸やはれむと今朝も思へる
・わかれ来て年を重ねて
年ごとに恋しくなれる
君にしあるかな
・ 長き文
三年のうちに三度来ぬ
我の書きしは四度にかあらむ
智恵子を歌った歌は二十二首であるが、その内から半数の十一首を抜いて参考に掲げてみた。
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