井上信興先生の啄木研究      塚本 宏
東海の小島の磯の白砂に          
   われ泣きぬれて           
   蟹とたはむる          

 夭折した薄倖の歌人・石川啄木(1886〜1912)の歌集「一握の砂」(1909)巻頭の一首です。百年後の今も愛唱されているのですから、文字通り「国民的・大衆歌人」の名をほしいままにしているのが啄木です。でも、東海の小島はどこなのか疑問に思っている人が何人おられるでしょうか。実は啄木研究家の間では、古くからその場所をめぐっては定説がなく、論争が絶えませんでした。この問題に何十年も執念とも言える情熱を傾けて取り組まれ、自説「大森浜」説をほぼ学会の定説にまでされたのが、今年米寿をお迎えの井上信興先生です。
井上信興先生

 先生は、新春早々、啄木研究についての10冊目(共同執筆の「石川啄木事典」を入れると11冊目。著書の一覧表は文末をご参照ください。)の著書を公刊されました。私もお世話になっている明和会ホームページの編集委員、東鶴保氏に偶々、このお話をしたところ、ぜひ会員の皆さんにもお知らせしようということになり、同氏のご尽力によって近々、このHPに井上先生による啄木研究の一端が連載される運びとなりました。

 短歌はおろか文学的素養ゼロの私が、井上先生のことをご紹介するのはいかにも場違いだとお感じになるかもしれません。実は、明治生命医務部でご一緒させていただき、先生が啄木研究に一層精進されるきっかけを作るのに関ったというご縁があるからです。「明治生命も遠くなりにけり」ですから記憶違いもあるでしょうが、私の思い出も綴りながら先生をご紹介させていただきます。

 井上先生は、1954(昭和29)年に明治生命、広島支社に入社、1991(平成3)年、70歳で退職されるまで一貫して診査医として活躍されました。その間、高度成長期のわが社医務部「29年」組の重鎮で、中国診査室長などの重責を担われ、当時の三原通・取締役医務部長からもっとも信頼されていた、私(昭和35年、山口支社入社)にとっての大先輩でした。

 先生の容貌は長身白皙、口数の少ない物静かな紳士ですが、躍進著しく業界準制覇を成し遂げた当時の北村康男・広島支社長(のちの副社長)ですら一目置いておられたと社医仲間で語り草になったほど、「外柔内剛」芯のぶれない名診査医でした。もともと幅広い趣味の持ち主でマージャン、カラオケは言うに及ばず、俳句や写真、オーディオなどの腕前も玄人はだしで、現役時代に句集や写真集を自費出版されました。下世話に言う凝り性だったと言えましょう。

 さて、昭和57、8年ころだったでしょうか、当時の医務部には、最盛期、120名を超す社医が在籍していましたので、隔月刊の「社医通信」(後に「医務通信」と改題)という冊子を発行していました。会社、引いては医務部の業務方針や計画、実務解説など社医の日常業務の円滑な遂行に欠かせない記事が満載されていたことは言うまでもありません。同時に息抜き的なページも設けていて、まだ悠長な時代だったのです。そのなかに井上先生の啄木研究が数回、掲載されました。「東海の小島」や「ローマ字日記」(自然主義に徹しようとした彼の生々しい性体験描写には編集一同を慌てさせことが懐かしく思い出されます。)などの評論だったように思います。

 これまた素人とは思えない緻密なロジックを駆使した論考だったので、社医だけの読み物にしておくのは勿体無いと考え、最大の発行部数を誇る医師向け週刊誌・日本医事新報の「メディカル・エッセイ」欄への投稿をお勧めしたのです。社医の人事広告欄で付き合いの深い編集部は二つ返事で承諾してくれ、ご本人からも早速、原稿が送られてきました。こうして同誌に掲載された「啄木短歌の評価について」(昭和58年10月22日号と29日号)が先生が世に問うた最初の啄木研究でした。この時、井上先生はすでに62歳でした。

 直ちに啄木ファンの医師からの反響、反論が掲載されました。いくつかの出版社からも本にしてみないか、と勧誘を受けられて、初めての単行本「啄木私記」が刊行されたのは、昭和62年夏でした。「あとがき」には出版できたことは無上のよろこびだと語られた後、「この本のきっかけを作っていただいた」と名前を出して私まで謝辞をいただいたのです。

井上先生ご自宅の歌碑
 事典を除く10冊の著書は出版のたびに贈呈を受けて、私の書棚を飾っています。その研究テーマは多岐にわたりますが、啄木文学の一方的な賛美者や「神格化」するような愛好者とは一線を画して、冷静な研究者の目で生活者の彼が未熟で欠点の多い、非社会的な人物だったことを明らかにされます。一例として「借金魔」の彼をこれでもかというほど追及しています。でも啄木が好きなことは人後に落ちずで、ご自宅の庭に啄木の「歌碑」まで作ってしまわれるのです。その全貌をとても紹介することはできませんが、読み易く、解り易くて、しかも説得力のある、という3原則をモットーにした先生の作品には定評があります。また、啄木の伝記ともいうべき「漂白の人」は愛読者も多く、全文を丸暗記している研究者もおられるほどです(大室精一・佐野短大教授)。ぜひご一読をお奨めします。

 最後に、先生は度々の大病をいずれも克服なさって、今も健筆を揮っておられます。その原動力が啄木研究であったことは言うまでもありません。「私の老後は啄木と共に過した・・・・・啄木に関する文章を綴っている時間が私にとって最も充実した、しかも楽しい時間であったことは確かである。」とも述懐しておられます。定年後の長いシニア時代の生き方のお手本だと言っても過言ではないでしょう。
 これから始まる先生の啄木研究の「連載」が待ち望まれます。なにしろ40数年にもわたる研究の成果がご披露されるのですから。
                           (2009年1月18日)

         井上先生の啄木関連の著書一覧、略歴
1.「啄木私記」   1987・8 渓水社
2.「続 啄木私記」 1990・2 そうぶん社
3.「新編 啄木私記」1992・8 そうぶん社  
4.「啄木断章」   1996・5 渓水社
5.「漂白の人 実録・石川啄木の生涯」 2001・1 文芸書房
6.「薄命の歌人 石川啄木小論集」 2005・4 渓水社 
7.「終章 石川啄木」       2006・6 渓水社
8.「続・終章 石川啄木」     2007・8 渓水社
9.「野口雨情 そして啄木」    2008・7 渓水社
10.「啄木文学の定説をめぐって」 2009・1 そうぶん社
11.国際啄木学会編:「石川啄木事典」(共著)2005・9 おうふう

 略歴(上記9から引用)
 井上信興(いのうえのぶおき)
 大正10年10月広島市生れ。医師。
 戦前啄木ゆかりの地である函館に居住し、盛岡で学生生活を送ったことから啄木に関心を持つようになる。
 昭和30年頃から啄木研究を志し、以後文献に親しむ。
 昭和57年以降小論を各種の新聞雑誌に発表して現在に至る。
 国際啄木学会会員。関西啄木懇話会会員。