啄木と三人の女性        井上 信興
 橘  智恵子 (2) 

 啄木と智恵子との関係で一応定説になっているのが、啄木の片恋だということで、智恵子は啄木に対して無関心だったからだという。

 啄木は智恵子に歌集「一握の砂」で二十二首もの歌を詠み一章を与えて発表した。また文章にも清純な恋心をのべているから、啄木が彼女を慕っていたことはまず確実である。

 この点については二説があるように思う。その一つは、吉田孤羊氏が「啄木をめぐるひとびと」で述べている。「真に彼が魂の根底から揺れ動かされ、深甚な影響を与へられた恋愛というのは、後にその妻となった堀合節子の中学時代の恋とこの橘智恵子へ捧げた哀切極まりなき片恋の二つしかないように思う。」と言う。

 つまり清純な思慕と見る立場と、また岩城之徳氏は「人物叢書・石川啄木」で「精神的な恋愛の対象として常に智恵子の面影を思い浮かべ、彼女に対する切ない思慕を歌うことによって、一つの甘美な自由世界つくりあげ、そこに逃れることによって都会での苦しい現実を忘れようとしたのである。」と言う。つまり苦しい現実からの逃避を智恵子に求めていたのだ。この両氏の論説は理解できる。
函館区立弥生尋常高等小学校
「函館の絵葉書」より


 そして岩城氏は智恵子の日記を引用し、「啄木の訪問は全く見えず、『終日家にいる別に変りたることなし。』と認められている処を見ても、それは啄木の一方的な愛情にすぎなかったことが明らかである。」と述べて両氏ともに啄木の片恋だと断定され、これが一応定説化していると思う。


 私は岩城氏のようにこの日記の記事を素直に読むことは出来ない。というのは、啄木が智恵子の下宿を訪問しているにもかかわらず、全くその記載をしなかったというのは、日記というものの性格からすれば不自然だと考えるからである。ここには智恵子の隠れた意思があったのだと思う。

 普通の女性であれば、「啄木氏が来訪され二時間ほど話して記念に詩集『あこがれ』を頂いた。」くらいのことを書くだろうと思うが、智恵子は何も書いてはいない。したがって啄木に対して無視したと考えられるのであろう。私の考えでは、書かなかったというより、書けなかったのだと思う、それは、若い男を部屋に入れたというようなことを書いた場合、この日記が家人の目に触れないという保障はない。異性関係を厳重に注意されていたと思われる彼女にしてみれば、そのあたりを考えた結果書かなかった、というのが私の考察である。

 次に岩城氏は、北海道の歌人遠藤勝一氏が啄木について智恵子に聴取した書簡を引用されている。その文面は、「石川啄木氏につきましては私も詳しきことは存じません。函館にお住まいになりました時分にお知り合いになりまして、その後年に一二度お便りがありましたのみ、ほんの一寸のご交際で御座いました。奥様もお子様も少しも存じませんが、奥様はお亡くなりになり、お子様は函館の遺愛女学校にご通学と聞いております。亡き後の詩人のお子様をお気の毒に思っておりますが、お訪ねも出来ずに居ります。青年時代から変わった方でしたが、こんな有名な詩人だとは存じませんでした。啄木全集には色々詳しいことがのっている様です。これ以外に私は存じません。」この書簡を一読して感じることは、当たり障りのない記述に終始し、肝心な点はまったく述べられていない。したがって一般的には啄木には無関心だとみて、啄木の一方的な片恋といった判断になるのであろう。

 智恵子の性格について実兄義一氏によれば「女性には珍しい理性の女であった」というから、彼女としては夫のある身であるし、この書簡が死後外部に発表されないという保障もない。理性の女性ならば後々問題になるような記述をするはずはないのである。

 智恵子が彼をどのように思っていたのか、その資料はまったく乏しい。だが私は啄木の片恋だとは思っていない。智恵子の中に啄木はかなり入り込んでいると考えているからである。

 片恋説を述べている論者は、なぜか智恵子の陰の部分を軽視しているのか、あるいは無視しているのかわからぬが、智恵子が啄木に強い関心を持っていたとすれば、それは相思相愛であって片恋ではない。

 以下智恵子の陰の部分に光を当ててみよう。啄木は明治四十二年一月に智恵子に年賀状を送った。彼女から一月五日に封書が届いたのである。函館時代こひしく、谷地頭なつかしくと書き、そしてこまごまと弥生尋常小学校時代の同僚の消息を伝えてきた。啄木が出したのは年賀状であるから、彼にまったく関心がないのであれば、葉書に「明けましておめでとう御座います。」くらい書いて出せばすむことである。だが彼女は封書でこまごまと書いてきたのである。この事実をどう考えればいいのか。私は彼女の啄木に対する誠意だと思うのである。関心のない者にそうした誠意を示す必要はない。

 その後同年二月十日に智恵子病気という通知があり、四月七日に退院したという報告がきた。関心のない男にまで、病気だとか退院したといった通知を送る必要があるだろうか。私はおそらく啄木から見舞の手紙でもくることを期待していたからではないかと思うのである。

 しかし啄木からの返事はなかなか来なかった。するとその月二十四日になって、彼女から手紙がきたのである。「このころは外を散歩する位に相成り候と書いてある。昔しのばれ候と書いてある。そしてお暇あれば葉書なりともと書いてある。」私はこの中で「お暇あれば葉書なりとも」という文字を重視すべきだと思う。彼女は啄木からの便りを待っていたのである。

 智恵子は兄儀一氏の学友である牧場主北村謹氏と結婚した。北村氏が彼女に会うために橘家を訪れた時、智恵子は奥の部屋で賛美歌を歌っていた。その声を聞いただけで十分だと言って本人に会う前に結婚をきめたと言われているから、男性にとってはいい声に聞こえたのであろう。啄木だけではなかった。
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
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