啄木と三人の女性        井上 信興
 橘  智恵子 (1) 
 節子の場合は啄木と結婚して以来死後までを記述し、読者の為に啄木の人物についてかなり詳細に述べたこともあって、原稿用紙にして百五十八枚というかなりの長文になったが、これから記述する二名の女性は、啄木と接した期間が僅かに数ヶ月という短期間であったから、少々の枚数で完結できると考えるので、事前にこの点を了解して頂き本題に入りたいと思う。

 啄木が渋民小学校をストライキなどして解雇され、函館に移住したことは節子の章でも述べたが、彼は妹光子だけを連れて渋民を出たのは明治四十年の五月四日であった。青森から連絡船陸奥丸で函館に渡るのである。当時は日露戦争後のことで、浮遊機雷が漂流していて危険なので、夜間の航行は禁止され、出航したのは早朝の三時であった。

       船に酔ひてやさしくなれる
       いもうとの眼見ゆ
       津軽の海を思へば

 当時の連絡船は千トンクラスの船であったから、陸奥湾内は波も静かだが、一たん湾を抜けて津軽海峡に入ると潮流も激しくなりかなり揺れるのである。光子は船旅が初めてであったから酔ったのであろう。啄木はその日の様子を次のように日記に記している。

 「海峡に進み入れば、波立ち騒ぎて船客多く酔ひつ。光子もいたく青ざめて幾度となく嘔吐を催しぬ。初めて遠き旅に出でしなれば、その心、母をや慕ふらんと、予はいといとしきを覚えつ。清心丹を飲ませなどす。」啄木は妹とあまり仲がよくはなかったが、やはり流浪の民となっては、兄らしく妹をいたわっている姿が見られる。

 函館に到着して、光子は直ちに小樽に向かった。啄木はさしあたって、松岡露堂の下宿へ同居させてもらうことにした。まず収入を考えなければ生活出来ない立場であったが、同人の澤田天峰は函館の商業会議所の主任書記であり、彼は啄木を商業会議所の臨時雇といった待遇で、会議所議員選挙有権者台帳の仕事を与えてくれた。この仕事を五月末で終えて暫くすると、東川尋常小学校に勤務する同人の一人吉野白村から連絡が入った。小学校に代用教員の仕事があるという。

 六月十一日に函館区立弥生尋常小学校代用教員を命ず。という辞令が出た。月給は十二円で渋民の八円よりは少々高かった。この小学校は職員十五名で児童数は千百余名という函館での名門校である。
啄木と橘智恵子
Wikipediaより

 ここに啄木が終生清純な思慕を捧げ、歌集「一握の砂」に一章をもうけて二十二首もの歌を捧げた女教師、橘智恵子がいたのである。啄木は日記に「教員室の光景は亦少なからず予をして観察する所多からしめき、十五名のうち七名は男にして八名は女教員なりき、予はつぶさに女教員生活を観察したり。」と述べ、女教師一人ずつの印象を綴った後、最後に橘智恵子については「橘智恵子君は真直に立てる鹿の子百合なるべし。」と記し好感を示している。観察は主として彼女に注がれたものであろう。

 智恵子は札幌郊外の農園主の娘で、明治二十二年の生れだから啄木より三歳の年下である。札幌の女学校を卒業して、函館の弥生尋常小学校へ赴任することが決まった時、娘一人を知らぬ土地に行かせる場合、母親として最も心配なことは、異性関係であっただろうということは、常識として当然考えられる。したがって娘に対して、その点について厳重に注意していただろう。彼女は翌年赴任してきた啄木と初めて合ったのである。

 私はこの二人が同じ勤務先で会ったことに、偶然とはいいながら、何か運命的なものを感ずるのである。と言うのは、智恵子が弥生尋常小学校に赴任したのは、彼女の意思ではない。教育関係者の命じたものであろう。また啄木が同校の代用教員に採用されたのは、彼の意思でもない。たまたま同校に空きがあったからであろう。もし空きがなく他校に空きがあったら他校に勤務したはずである。その場合、智恵子との縁は永遠に出来なかった。こうしたことを考えると、私はこの二人の出会いに、運命的なものを感じざるを得ないように思うのである。

 それはともかく、啄木が智恵子に会って直接話したのは二度しかない。一度目は、彼が函館の大火で札幌に移転することを決めて、大竹校長に退職願を提出するため、同家を訪問した際、偶然その席に智恵子もいたのである。おそらく啄木はいい機会だと思って、彼女に札幌のことについて色々聞いたと思う。そして二度目は谷地頭の智恵子の部屋を訪ね、二時間ばかり話して、詩集「あこがれ」を記念に置いて帰った。彼としては彼女と二人きりでもっと話したかったのだろう。

      頬の寒き
        流離の旅の人として
          路問ふほどのこと言ひしのみ

 といった歌を残しているが、ここにはもっと話たかった、といった彼の未練を行間に感ずるのである。この歌は私の好きな歌の一首であると共に、啄木の技量を感ずる。智恵子に捧げた清純無比な歌を見ても啄木の彼女に抱いた感情が並のものではないことがわかる。歌だけではない。啄木は「ローマ字日記」に彼女についてつぎのように述べている。「智恵子さんの葉書を見ていると、なぜかたまらないほど恋しくなってきた。『人の妻にならぬ前に、たった一度でいいから会いたい。』そう思った。

 智恵子さん、なんといい名前だろう。あのしとやかな、そして軽やかな、いかにも若い女らしい歩きぶり、さわやかな声、二人の話したのはたった二度だ。」この文章を読むと啄木は智恵子のすべてに、すっかり参っている様子がわかる。「さわやかな声」といい「声の女」ともいう、声に特徴があったようだ。 

        かの声をもう一度聴かば
          すっきりと
        胸や晴れむと今朝も思へる
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
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