啄木と三人の女性        井上 信興
 石 川 節 子 (8)
 啄木は代用教員を罷免されたから、たちまち渋民を出なければならぬことになったが、さし当って転居できる場所は無かった。彼の場合、何処でもいいというわけではなく、出来れば文学の土壌の有る所を望んでいたと思う。函館の文芸誌に詩を送っていたので、一応同誌の同人松岡路堂に函館に転居したい旨を伝えてみた。すぐさま歓迎するという返信がきて函館移住を決意した。移転先の収入がどうなるのか全く不明であるから、当分単身で移ることにし、母を知人宅に預け、妻子は実家に帰した。妹は小樽の姉夫婦に預けることとして、光子だけ函館まで連れて行くことにした。出発にあたり、金がないから旅費を作らねばならない。当てにしていた友人からの金がこないので、「我妻は、山路二里、畠山君を訪へり。予は妻の心を思ふて思わず感謝の涙を落としぬ。十二時頃我が夜の物を質に入れて五金を得、懐中九円七十銭なり。」と日記にある。啄木の勝手な行動から、一家離散という最悪の事態を招いたのである。
函館・大森浜の啄木歌碑
筆者提供
 再び帰ることのない故郷の山野を後にして、彼が光子を連れて函館に着いたのは明治四十年五月五日午前九時であった。当時の連絡線は直接桟橋に接岸するのではなく、沖に停泊した本船から、ハシケに乗り移って啄木たちは鉄道桟橋に上陸した。光子を小樽に発たせ、彼は「広島屋」という旅館で迎えを待った。一方文芸誌の同人達は、もう一つある東浜桟橋へ迎えに出ていたが、それらしい姿が見えないので、散会して岩崎と松岡が社に帰ってみると、車夫がもってきたという啄木からの手紙があった。駅前の宿にいることを知った彼らは「鉄道馬車の遅いのがもどかしく、途中から降りて走って行った。石川君は肩の角張った小柄の人であった。」と岩崎正はのべている。この文芸誌の同人は主幹の大島流人、吉野白村、岩崎白鯨、松岡路堂、並木翡翠、宮崎郁雨、澤田天峯、向井夷希微といった面々で、彼らは「明星」にも歌や詩を発表していたから、地方の文芸誌としてはレベルの高いものと言える。
 これらの同人達は何も持たない啄木に対して親身になって世話をしている。家を用意し、家財道具を持ち寄り、同人吉野白村は、名門校函館区立「弥生尋常小学校」の代用教員に採用させ、十二円の月収を得ることができた。どうやら生活のめどが立ったことから、実家で待つ妻子に通知し、節子が京子を連れて函館に着いたのは七月七日であった。その日は日曜でもあったから、同人達も揃っても迎えに出ていた。宮崎郁雨は当時の様子をその著「函館の砂」で次のように述べている。「私達はこれまで散々彼女との恋愛談を聞かされていたから、賛嘆と羨望と興味との対象として、心ひそかに彼女の容姿や性情をそれぞれの脳裏に映像していたのであった。」「京ちゃんをおんぶしてはいたが、背格好のすらりとした、程々に肉付きのよい姿態と紫がかった矢がすりの着物とが、似付いているように私には映った。」としながらも、「しかし私は、それとなく胸中に描いていた『節子夫人像』とは、かなりの違った現実の本人を目前にして、軽い失望を心中に感じていた。」この記述から私は、啄木が同人たちに節子についてかなりオーバーに美化して話していたのではないかといった印象を受ける。
 同人たちはそれぞれサラリーマンであったが、その中で宮崎郁雨だけは違っていた。
「宮崎郁雨」函館の実家
筆者提供
彼は味噌製造販売業を手広く商う商家の若旦那という恵まれた環境にいた、したがって金と暇は十分にあった。啄木はすでに持参した金は使いはたしていたから、郁雨へ葉書を出してみた。「懐中の淋しきは心も淋しくなる所以に御座候。申し上げかね候へども実は妻も可哀想だし、○少し当分御貸し下され度奉懇願候。少しにてよろしく御座候。」と遠慮がちに書いてはいるが、これが郁雨への最初の借金であった。彼の啄木への金銭的支援は以後その生涯続くのである。啄木から請求があった時だけではない。郁雨著「函館の砂」によれば、ある日のこと、「一体食う米があるのか、と聞いてみた。彼はあの底光りのする眼球を一寸の間うろつかせたが、節子さんを顧みて『あるか』と聞いた。節子さんは顔を赤くして『ごあんせん』と答える。彼は流石にてれくさい表情で『ないそうだ』と私に言った。私は帰り際にそっと節子さんに金を渡した。」こうしたケースを見ても、啄木一家に対する彼の心くばりは、宮崎家の家訓に由来する。「自分の幸福は他にも分かち与えよ 」といった環境に育った郁雨であるから、彼にとっては当然の行為なのである。「中には無類のお人好しだ、」などといった記述を目にしたこともあるが、そんな低次元の話ではないのである。
「函館日日新聞社」の編集長
斎藤大硯
筆者提供
 啄木は小学校の勤めに出て一か月ほど過ぎた頃、会議で自分の主張が入れられなかったといって、届けも出さずに欠勤した。少し慣れてくると、こうした我儘が出てくるのである。資格を持たない代用教員の身で勤務草々の新参者であれば、まず自己主張はしないのが普通の考えであろう。だが彼はそれが不満ですぐ翌日は無断欠勤をするのである。こうした勤務態度では、到底長続きはしないだろうと思った郁雨は、彼の懇意にしている「函館日日新聞社」の編集長、斎藤大硯に頼んで八月十八日に啄木を入社させた。この斎藤大硯という人物は啄木も日記に「快男児大硯」と書いているが、彼は早稲田大学を出て「日本新聞社」に入社し、通信員として台湾に赴き、時の台湾総督であった乃木将軍に可愛がられたという。以後将軍に私淑し、「少年乃木会」の結成や函館で乃木神社建設の時には主導的役割を果たした。高志の風格があったという。啄木は学校より、新聞社のほうが合うようで、学校は在籍のまま新聞社に入社した。       
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
著書
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