啄木と三人の女性        井上 信興
 石 川 節 子 (7)
 石を持って追われるように出された故郷渋民村であったから、誇り高き啄木一家が寺ではなく、借りた斎藤家の一部屋へ帰るについては、複雑な想いを抱いていたに違いない。しかし一家はこの屈辱に耐えるしかなかった。明治三十九年三月四日、いよいよ渋民へ入る日が来た。啄木は妻と母を伴い、凍って滑る道を一里ほど歩いて渋民にたどり着いた。農家の六畳間であるから畳や障子にしても粗末で黒くすすけている。寺での生活とは雲泥の差であったが、これが今の彼ら一家の現実なのである。四月十三日に辞令が交付された。
渋民小学校
筆者提供
「岩手郡渋民尋常高等小学校尋常科代用教員を命ず」月給は八円という薄給であった。啄木は二年生を受け持つことにきまったが、彼の希望は高等科であった。辞令は「尋常科代用教員」であるから彼の希望は入れられるはずはない。採用される際「いかなる困難にも耐え粉骨砕身必ず御恩義と期待に報います」と誓っているが、そんな誓いは彼の場合守れるはずはないのである。啄木は日記につぎのように述べている。「出来るだけ、自分の心の呼吸を故山の子弟の胸奥に吹き込みたい、それには高等科あたりが最も適当である。」そうした考えから、高等科の希望者に英語の課外授業を放課後に実施することにした。放課後で希望者ということになれば校長も反対できなかったと思う。

 啄木というのはどの職場でもそうだが、少し慣れてくると、ずる休みが多くなるのである。休むことで他人に迷惑がかかるなどということはそれ程気にならない性格のようで、基本的に身勝手な性質なのであろう。彼は小説を書くために休むのである。日記に「これから自分も愈々小説を書くのだ。という決心が帰郷の際唯一の予のおみやげであった。予は決して田舎に居るからといって頭が鈍くなってはいない。周囲から刺激を受けて進む手合いとは少々格が違ふ。」これはたいした自信ではあるが、世の中はそう甘くはないのである。また日記の記述を引くと、「この十日ばかりの間、予は徹夜すること数回、二時間か三時間しか眠らない。それでもかなり学校にも出た。尤も欠勤して書いたこともある。」という。「それでもかなり学校にも出た。」こうしたセリフは一般の勤め人からは出ない。これで「必ず恩義とご期待に報います」といって採用されたことなど、とっくに頭から消えているのである。高橋六介によると、遠藤校長は後に、「あの人は体の弱いのと、原稿を書くことのために、一週間と満足に欠勤しないで学校に出たことはありませんでした。非常に欠勤が多くて困りました。」この学校には教師はたったの四人しかいなかったから、一人休むと管理者は四苦八苦することになろう。啄木にとっては、小説を書くのが本業で代用教員などは副業にすぎないのである。

 盛岡の実家で節子は女児を分娩し、子供を連れて渋民へ帰ることになった。この子は「京子」と命名されたが、啄木は金田一京助から京の一字をもらって名づけたという。
金田一京助と啄木
筆者提供
節子が来るという報告を受けたとき、一時帰宅していた父一禎は薄給で暮らしている貧困家庭に、家族が増えたのではますます困窮することになる。そうした判断からであろう、彼は家族に気付かれぬように早朝家を出て雪道を徒歩で野辺地の常光寺を目指した。東北の三月はまだ寒さも厳しく雪も深い、おそらく持ち出す金もなかっただろうし、食事もしていなかったのではないか。好摩から北へ四つ目の奥中山駅付近まで来て、ついに力尽きて雪中に倒れたのである。幸い駅職員の米内謙太郎によって救助された。彼は親戚でもあったから、野辺地まで送ってもらえた。

 啄木はこうした生活になじむはずはない。何か事を起こして、それを切掛けにして渋民を出るつもりだったのだ。高等科の生徒に「校長は校長として足りないところがあるから辞めてもらう。」などと、理由にもならないことを理由にして、ストライキを決行したのである。啄木は生徒を引率して学校をでた。五六丁先の平田野に集合して、みんなは学校を三日間休むことを告げ、渋民小学校万歳を叫んで帰校したが、その晩、役場から「学校を休んではならない」という通知があって、翌日はおおかた登校したという。啄木の予定は大体実現した。遠藤校長は転勤になり、啄木も当然免職となった。彼は日本一の代用教員だと自負しているが、自己都合で純真な生徒を扇動し、ストライキなどに巻き込む教師がはたして教師の名に値するだろうか、だが生徒らには教師としてかなりの人気があった。

 一戸完七郎の談話によれば「普通の先生なれば教科書のことだけを教えるに過ぎなかったのに、石川先生の授業は種々の自分の意見を加えて詳しく、熱すれば卓をたたき、涙を流し、時間の過ぎるのも忘れるほどでしたから、生徒からは喜ばれました。先生は代用教員でしたが、私達はあるいは校長先生よりも偉いのではないかと思ったりしました。」また田鎖清の談話によれば、「先生は授業時間中たいてい鞭を一時間で台無しにしてしまうのでした。いつの間にか講義をしながら折ったり割ったりしてしまうのです。あれは講義に熱中するせいだと思います。叱る時はまたたいしたものでした。血相をかえて叱るのです。不意に卓をたたきどなるのですが、時にはあまり唐突なので誰が叱られているのかわからぬ事もありました。」この談話はきわめて興味深い。我々にも啄木の熱心な授業の様子がよく伝わってくる。「日本一の代用教員」だと自負するのもわからぬではない。彼の教育論に「林中書」と言う論考がある。「余は遂に詩人だ、そして詩人のみが真の教育者である。」とか、また、「教育の最高目的は、天才を養成することにある。」という。しかし教育者は詩人に限ったこともないし、天才だけを養成するものでもない。
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井上信興先生の
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