啄木と三人の女性        井上 信興
1. 石 川 節 子 (6)
 両親や出席者は啄木に節子との結婚の意思があるのかないのか、その真意を疑がったに相違ない。世話を担当した上野によれば、「その日の節子の態度は実に落ちついたもので別段彼の不信を意に介しているようでもなく、悲観しているようにも見えず意外でした。それに反して親たちは皆オロオロしていました。」という。節子は啄木とのこれまでの交際から、裏切るようなことはない、といった自信を持っていたからに相違ない。だが友人たちは、啄木の無責任な態度から、「この結婚を中止してはどうか」と節子を説得したが、節子は「いずれ書面で御返事します」といって即答を避けた。節子の返信には「吾はあくまで愛の永遠性なるといふことを信じたく候。」とあり、沢地久枝著「石川節子」のタイトルに書かれて有名な言葉にもなった。この手紙には啄木が節子に宛てた書簡も同封されていて、節子を愛する言葉が綿々と綴られていたのだと思われる。また「吾は啄木の過去における吾にそそげる深見の愛」を信じ、自信をもって「愛の永遠性」という言葉を使ったものと考えられる。友人達も「節子が決然たる意中を伝えてきたので大いに感激もし、同情を深めもしたことだった。」と述べているから納得出来たのだろう。

 翌朝父一禎は新婦節子を伴って、昨夜の礼に世話をかけた上野の宅を訪れた。上野は「啄木や友人から頼まれて自分の責任を果たしたから今後一切手を引き、啄木との交際も断つことにした。」と、彼は絶交を言い渡した。父の心情は同情に値するが、節子とて悲しみに耐えていたことであろう。そして上野の処置も当然であった。こうした状況の中で、上野へ啄木からハガキが届いた。「友よ友よ、生は猶生きてあり、二三日中に行く、願わくば心を休めたまへ、」とあり、このハガキは好摩駅から三十日の昼前に出している。つまり結婚式当日である。準備に当っている上野にすれば、まるで馬鹿にされているようなものだ。こうした啄木であるから、上野に限らず、他の友人達も彼に対しての信頼は地に落ちたであろう。
啄木と節子の新婚の家
筆者提供


 啄木は結婚式の四日後、六月四日になって平然として盛岡に帰ってきた。用意された新居は、現在「啄木新婚の家」として保存され一般に公開されている。下級武士の屋敷で、八畳、六畳、四畳半の一軒家である。しかし啄木は就職に努力する様子もなく、「閑天地」などといった随想を「岩手日報」へ投稿したりしていた。収入を計る計画がないのであるから、近い将来この一家は重大な危機に立たされることになるのは必至であろう。西力造「啄木の思い出」によれば、「夕方啄木の手紙を持って節子さんが金を取りに来た。」「学生の身分であまり余裕もない私のような者のところまで、融通を頼みにきたのだ。新婚間もない節子さんがもう借金の使いにこなけりゃあならぬとは、」とあり、主な友人には借金し尽しているので、こうした学生にまでも頼るという状況になっていたことがわかる。つまり末期的症状なのである。この家も家賃が支払えないから、移転をよぎなくされて、郊外の加賀野へ転居していった。

 その頃、年下の友人大信田落花が訪ねて来た。彼は呉服屋の息子であったが、文学にはある程度の実績を持つ人物でもあった。多分啄木が切り出したのだと思うが、その日に文芸誌「小天地」を発行しようという話がまとまった。
小天地
筆者提供
何の希望とてない啄木に、この話は一杯の清涼飲料水となって、たちまち元気を快復した。こうなるとその対応は迅速である。その夜から、岩野泡鳴、小山内薫、綱島梁川、与謝野鉄幹などに原稿の依頼状を発送し、原稿もよく集ったから、盛岡のような地方都市の文芸誌としてはなかなか高級であった。こうして九月五日に待望の「小天地」が二百部発刊された。出版経費のすべては大信田落花の負担である。この雑誌は創刊一号だけで終わった。

 落花の家人は、啄木の評判が悪いことを耳にしていたとみえ、計画の最初から、「啄木に騙されるな」と注意していたという。したがって二号の経費を大信田家が出さなかったのであろう。雑誌の仕事が無くなればまた目的を失うことになる。そんな頃、親しくしている金田一京助が、啄木がどうしているか心配して訪ねてきた。金田一の「石川啄木」から引くと、「石川君は無精髭をそのまま長く伸ばして肩の上まで垂れ、芝居の由井正雪の様な格好をしていた。正月は郷土の若い誌友を集めて歌会を開き、節子さんも交ってさしずめ与謝野晶子夫人の役を演じて、夜は徹夜カルタ会を催すなど、盛んなもので、これが半生の流転の前のほんの暫くの安息だった。」と述べている。金田一は当時仙台の旧制第二高等学校に在学していたから、休みに啄木を訪ねたのであろう。金田一のような真面目で堅実な生活者からみると、啄木などの生活態度などは、何を考えているのか理解に苦しんだことだろう。啄木は窮乏の生活の中で、その苦悩をこのような遊びでまぎらわしていたのだ、やはり破綻は間もなくやってきた。

 光子の「兄啄木の思い出」によれば、「新婚である節子さんの着物も質屋に運ばれ、私の着物も同様だが、父が私の為にと作ってくれた欅の箪笥も、この時に売られてしまった。」この状況となっては、父一禎は僧侶以外に何も出来ない人物であるから、啄木がその責任を負う立場にあった。しかし彼とてたちまちやれるのは代用教員くらいのものである。節子が頼んだのであろう、父忠操は郡役所に勤務していたから、同僚の視学、平野喜平に代用教員の就職を依頼した。平野は当時欠員のなかった渋民尋常高等小学校の正規の資格を持つ教員を転勤させてまで啄木を採用させたのである。啄木は「ご採用下さった暁には、いかなる困難にも耐え粉骨砕心必ずご恩義とご期待に報います。」と誓って採用がきまった。
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
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