啄木と三人の女性        井上 信興
1. 石 川 節 子 (5)
 この日は土曜日だったので午後から仙台医専に在学していた啄木の友人、小林茂雄と猪狩見竜の二人に会っていた。共に啄木の中学時代の友人である。その夜は彼らの宿舎自治寮に泊めてもらった。当時啄木の頭を支配していたのは、両親は寺を出されて無収入になっていたことと、当てにしていた詩集も金にはならず、帰宅すれば結婚式が待っている、これにも金はかかる。とにかくある程度の資金を用意する必要があった。

渋民の曹洞宗宝徳寺
写真は筆者提供


 晩翠に会いたいと考えて仙台に留まったのは、晩翠から金を借りようというのが当面の目的だったと私は考えている。その事実は後に判明する。翌日は日曜なので晩翠は在宅していた。彼は前年欧州を旅行したので、現地で購入したラフアァエロの画集などを見せて画の話や、スイスの風景に感動したこととか、詩の話は無論だが、音楽の話も出た。ベルリンで購入したという当時としては珍しい蓄音機で、啄木の希望するワグナーの曲ほか数曲を聴かしてもらった。そのうえビールや奥さん手作りのオムレツまでご馳走になり晩翠宅を辞したのはすでに夜中の一時を回っていた。

 啄木はその日の感想を「ひとりトボトボと淋しき大路を宿に帰るに、つねには似ぬ安けさの我が胸に流れ、旅心洸として一味の慰楽をむさぼり得たり。」とあり、久しぶりに心の安らぎを得たのである。以上の記述は「閑天地」という文章から引用したが、しかし肝腎の借金については、思わぬ歓待を受けたことから、啄木といえども遂に言い出せなかったのであろう。この件について「さすがの啄木も晩翠の謹厳な風格に呑まれて言いだせなかったのだ」という研究者もあるが、啄木というのは、前記したように、時の尾崎東京市長を紹介状さえ持たずに訪問して、詩集の出版社紹介を頼むような男なのだから、まだ三十代の晩翠の威厳に呑まれて、などというようなことは全くないと私は思う。

 啄木は翌日昼の汽車で、田沼、小林などの友人に見送られて仙台を離れた。これで盛岡へ帰ったのなら話は簡単なのだが、彼の場合はそう単純には事が運ばないのである。田沼が東京へ帰ってみると、上野から連絡が入っていた「啄木を帰したというが、まだ帰っていない」という。田沼は愕然としたことであろう。彼にすれば、啄木を汽車に乗せ、友人達と見送ったのであるから、当然帰宅しているはずだ、と思う以外には、ほかに考えようがなかった。だが啄木の行動は田沼には想像外のものであった。彼は一駅か二駅で下車し、再び仙台に舞い戻ってきたのである。その時の啄木の考えというのは、金をつくることにあった。晩翠は人もよさそうだし、彼から金を引き出す以外にない、確実に引き出すために啄木は周到な計画を練っていた。まず母を重病人に仕立て、病気で危険な状態になったと幼い妹から手紙がきたという設定にし、わら半紙を用意して、たどたどしい字を鉛筆で書いた。晩翠夫人を感動させるくらいの文章を書くのは啄木にとっては造作もない事だったろう。

 その夜旅館の番頭に依頼して晩翠宅にとどけさせたのである。その模様は晩翠夫人の文章に詳しい。「ある夕方、主人が不在で私が入浴中大泉旅館の番頭が持ってきた手紙、それに『大至急願用』とあるのに驚いて、浴室の薄明かりで読みました。その意は岩手のお宅でお母さんが病気重態とのことでした。『今日届いた十歳になる妹の手紙を封入して置きますから御覧下されて小生の意中をお察し下さい。旅費のないために私にとって大恩のある母の死に目に万一逢われぬとでもいうような事にでもなれば実に千載の憾みです。原稿料の来るまで十五円お立替え願い度し。』と書いてあり、私は一も二もなく同情してしまいました。」と、啄木は予定どうり夫人を引き込むことに成功したのだ。夫人の文章を続けると、「幸いその時十五円のお金はありました。主人にも後で話せば必ず賛成してくれると信じ切ったほどその手紙はあわれに悲しく書いてありました。私は急いで風呂から上がり手早く着物を着て、人力車を呼び大泉旅館へ急がせました。

 啄木さんの部屋というと、直ちに女中が案内しました。私は重態のお母さんを案じて、机にもたれてさびしい泣き顔でもして居られる様子を胸にえがいておりましたのに、その部屋の光景はあまりにも意外でした。二人の医専の学生と酒を飲んで、真赤な 顔をして大声で何か面白そうに話していました。」しかしこれだけでは済まなかった。「お母さんの病気は疑いませんでしたから、その夜か翌朝は発たれた事とのみ思っていましたら、夜もとっぷり暮れた八時ころ、旅館の番頭が来て、『今石川さんがお発ちになります。宿泊料はお宅でお払い下さるとのことですがよろしいですか』といって参りました。(石川啄木と仙台)

 結局宿泊料の八円五十銭も晩翠家が支払ったのである。この一連の状況を見ると、誰が考えても、詐欺的行為である。こういう事が平気で出来る啄木というのは特殊の神経を持った人物であろう。この借金を返済したという記述はない。相手が良かったから問題にならなかったが、訴えられてもしかたのないケースだと思う。啄木は仙台にとどまること十日にして、帰途についたのは五月二十九日であったから、そのまま帰宅すれば翌日の結婚式には間に合ったはずだが、彼はついに帰らなかったのである。妹光子の証言によれば、「たまらなくなった節子さんと私は渋民村へ帰っているらしい、という噂が耳に入ったので捜しに行ったがそこにもいなかった。予定していた結婚式の当日、肝腎の婿さんのいないままに披露宴のようなものになってしまった。」という。啄木は何を考えているのであろうか、花婿不在の結婚式などは、おそらく啄木の場合だけで、前代未聞のケースであろう。
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
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