啄木と三人の女性        井上 信興
1. 石 川 節 子 (4)
 啄木が最後の期待をかけた尾崎東京市長の訪問も遂に不調に終わった。彼は詩集発刊を断念しなければならぬ事態に追い込まれていたのである。そんな時、ふと思い出したのが高等小学校時代の学友、小田島真平であった。彼の長兄嘉兵衛はたしか東京で出版社に勤めているように聞いていたので、真平に連絡を取って見た。彼は即座に啄木の要求を入れて、次兄の尚三へ「啄木が詩集出版について相談してきているが、出来れば協力してやってほしい。」というような話をしたのであろう。真平がなぜ「大学堂」に勤務する長兄の嘉兵衛ではなく次兄の尚三に連絡したのか、私はその点に疑問を持ち、小田島家の遺族に照会してみた。その結果、当時長兄は家庭内の事情で実家とは絶縁していたということであった。したがって真平が次兄に連絡した理由が判明した。啄木が、嘉兵衛に宛てた紹介状をもって上京したと述べている研究者もあるが、そうした事実はない。もしそうなら上京して真っ先に長兄を訪問するはずで、あれこれ詩人や尾崎市長などを訪ね歩く必要はなかった。最後に嘉兵衛をたずねているのがその証拠である。

詩集「あこがれ」
の表紙
写真は筆者提供
 次兄と長兄の間には絶縁はなかったようで、出版についての知識がない尚三は嘉兵衛に相談した結果、「啄木の現時点での評価では無理だが資金を出すのなら出来ないこともない。ついては啄木に一度会ってみたら、」という意見であった。尚三は嘉兵衛の意見にしたがって啄木の下宿を訪問した。「少しほら吹きだという感じをうけたけれども、ただ眼が澄んでいて美しいので、詩人とはこういうものかと思った。真平が『彼は文学的才能のある人だ』と推薦したが、結局私も啄木に魅せられてしまったわけでしょう。」(人間啄木)尚三は当時、日本橋区青物町の八十九銀行に勤務していたが、当時は日露戦争の最中であり、この年四月に入隊する予定になっていた。戦地に行けば、もとより生死もわからぬ身であるから、真平が推薦した啄木のために、これまで蓄えてきた預金二百円を提供して啄木の処女詩集「あこがれ」を出版することにしたのである。

 これまで私の視界に入った文献では、「小田島三兄弟の協力により」と簡単にくくって述べているが、その協力度というのは必ずしも同一ではない。というのは尚三が二百円という当時としては大金を、もし啄木の詩集出版に提供しなかったら、絶対にこの時詩集は出版出来なかった。彼はなんの収穫もないまま帰郷しなければならなかったのだ。啄木は多くの人から借金しているが、二百円以上の大金を提供しているのは函館での親友、宮崎郁雨だけでそれ以外にはないのである。それを考えると、尚三の援助というのは軽視できない存在であることがわかる。しかし啄木関係の辞典には小田島尚三の個人名は掲載されていない。この点を私ははなはだ不満に思っている。詩集は出来たものの彼はこの原稿を出版社に売ってなにがしかの金を得ようと考えていたが、結局金にはならなかったのが不満で、尚三に対してさえ「ありがとう」の一言もなかったという。

啄木と節子
写真は筆者提供
 その頃故郷では重大な事件が起こっていた。寺が宗費、百十三円余を滞納したために、曹洞宗宗務院から住職罷免という処分を受けたのである。しかし上京中の啄木には連絡してこなかったので、彼は知らずにいたが、三月二日両親は住み慣れた渋民を出た。この知らせを受けた啄木の胸中は金田一への四月十一日の書簡で明らかである。「故郷の事にては、この呑気な小生も煩悶に煩悶を重ね一時は皆捨てて、田舎の先生にでもなろうとも考えた。」啄木はこうした状況になっていたにもかかわらず、帰郷する様子は見えなかった。しかも五月の三十日には恋人節子との結婚式が予定されていたのである。

 ここで少々節子との結婚について述べることにしたい。この結婚については、啄木の父は本人がよければ、ということで反対はなかったが、母は反対であった。また節子の父は絶対反対で、彼は郡役所に勤める真面目な堅物であったから、中学も満足に卒業できず、定職にも就かずに、文学にしたっているような軟弱な男に娘をやるなどということは絶対に許せなかった。彼にはもっと堅実な人物に嫁がせたいと考えていたと思われる。まあ誰が考えても、この頃の啄木に娘をもつ親なら反対するのは当然であったろう。母は「私が夫とよべるのは啄木以外にはない」という節子の決意には勝てなかった。

 啄木の母が反対したのは、節子が女学校同級の金矢のぶ子が渋民の出身なので、休暇などには時々遊びに来ていた。しかし啄木の妹光子の証言によれば、「節子は、あまり親しくもない私を訪ねてきて、啄木にとりつがせる」のだという。つまり節子は啄木に会いたくてくるのだ。そして二三日居座ることもあったという。現代ならどうかは知らぬが、そのような女の子が明治時代の母に気に入られるはずはない。おとなしそうな節子が恋をするとこうも変わるものかと、私などもいささか驚くのである。

 啄木と節子の結婚式は五月三十日に決まっていたから、その準備を依頼され友人の上野幸一が担当していた。啄木がなかなか帰らないので、上野は再三東京の友人に「啄木を早く返せ」と催促してきていたが、しかし啄木の動く気配はなかった。金のないことを知っている友人らが、それぞれ金を持ち寄り十円ほどになったので、五月十九日啄木は、詩集「あこがれ」を抱き、仙台まで同行する田沼と共に上野を発ったのは午後の七時四十五分であった。翌早朝仙台に着いたが、啄木は土井晩翠に会いたいからといって田沼と共に下車したのである。晩翠は詩人として有名な人物で、当時旧制の第二高等学校の教授でもあった。啄木が自宅を訪問したとき、晩翠は生憎勤務先へ出ていて、四時過ぎには帰宅するという。
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
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