啄木と三人の女性        井上 信興
1. 石 川 節 子 (3)
 啄木の体調は良くなったといってもまだ十分ではなかった。しかし文学への思いは捨てがたく、かねてから書く予定のあった「ワグネルの思想」に着手したのである。この論文は「岩手日報」へ七回にわたって発表された。なかなか壮大な構想によるものだったが、序論だけで、結局完結はしなかったのである。

 研究者の中には、「少年啄木の力が尽きた」と見るむきもあるが、啄木は日記に「病のため筆を断った」と書いている。しかしこれは一時的に中止したのであって、投げ出したのではない。友人の細越夏村への書簡に「生は秋中にはまとまったもの書きたしと思ふている」とあり、続けるつもりではいたのである。だがしかし予期せぬことから、この論文は断念することになった。彼は新聞広告で米国在住の野口米次郎という詩人の詩集「東海より」が出版されたことを知ったからである。

詩集「あこがれ」の表紙
(写真は筆者提供)
 当時啄木は渡米したいという希望を持っていたから、野口が米国在住者だということに注目したと思う。だが彼には本を注文する金はなかった。それで恋人節子に購入を依頼したのだと私は考えている。当時野口米次郎は日本では全く無名の詩人だったから、節子自身が選べるはずはないのである。したがって私は啄木の依頼によるものだと考えているが、一般的には節子が自発的厚意から贈ったようにとらえられている。野口の詩集「東海より」を啄木も気に入ったのであろう。彼はそれまで、与謝野鉄幹の「明星」に短歌を発表していたが、「東海より」を読んでから、突如として詩作に入った。

 従来鉄幹の指示によって歌から詩に転換したというのが、定説のようにいわれているが、それは啄木が鉄幹を訪問した際、「和歌も一詩形には相違なけれども今後の詩人はよろしく新体詩上の新開拓をなさざるべからず、」とか、「啄木君の思い出」と言う文章のなかで、「君の歌は何の創新もない失礼ながら歌を止めて、外の詩体を選ばれるがよかろう。」と言っているから、研究者の中には、この言葉を信用して「鉄幹説」が出たものと思うが、この文章には矛盾が多く到底私は信用できないと考えている。

 啄木は野口に接近するためには、詩の実作が必要だと考えたと思う。この「東海より」を入手したのは早ければこの年十月下旬から十一月にかけてであった。啄木というのは、詩にも短歌同様の関心をもっていたから、彼が何時詩作に転換したとしても不思議ではなかった。彼はたちまち五編の詩をつくって「明星」の十二月号に発表した。本来なら十二月号には従来どうり、歌の原稿を既に送っていたのだから、詩のほうは年が明けて一月号に出してもいいのではないかと思うのだが、啄木としては急いでいたのである。野口と早く接触したいと考えていたからである。

 一月には「東海より」の評論「詩談一側」を新聞に発表し、この記事は即刻野口に送り、一月二十一日には長文の書簡を出し、野口への憧憬と渡米の希望がのべられている。「大兄の引き出した詩の巨鐘の、哀れむべき一青年に及ぼしたる余響は、単に詩興一面の感化ではなくて、私が幼児より心がけていた米国行きの希望に、強く制すべからざる加熱力を与えたのであります。」そして「なつかしい大兄の高風に接すべく、如何にして己が渡航の機会、否費用を見付けたらよいであろうか。」と述べているが、ここには啄木の本音が出ていると思う。余分の金を持たない彼は野口から渡米費用を何とか引き出せないかと考えたのだ。野口とてやっと詩人としての地位を確保したとはいえ、まだ三十そこそこの頃であり、彼とてそう楽な生活をしていたわけではない。とうていそのような大金を出せる余裕などはないから、啄木の期待に沿うことは出来なかったのだ。

 いくら待っても野口からの返事はこなかった。当然であろう。しかしこれ以後、短歌から詩作に転換していったので、七十七編という多数の詩が完成していた。したがって啄木としては、詩集を出したいと考えたのは当然であるが、何分にもまとまった資金を必要とするから、小樽の姉夫婦の山本家に相談するため、北海道へ渡ったが、姉はあいにく病気中で金を借りる話にはならなかった。しかし彼は準備もないまま詩集発刊の目的で上京したのは弱冠十九歳の明治三十七年十月三十一日のことであった。

尾崎東京市長
(写真は筆者提供)
 とにかく有名な詩人の紹介で出版にこぎつけようとして、毎日詩人を訪問したが収穫はなかった。こうなっては超大物に頼むしかないと考えたのが尊敬していた郷土出身の尾崎行雄東京市長であった。詩集の原稿だけ持って訪問したのである。出版社の紹介を頼むにあたり、その際詩集の扉に「此書を尾崎行雄氏に献じ併せて遥かに故郷の山河に捧ぐ」と献辞しているが、私は尾崎市長の気を引き、啄木への親近感を持たせることによって、好意的な状況を引き出せるのではないかと、彼は考えたのではないかと私は思っている。だが啄木の考えは甘かったのだ。

 尾崎市長は後に、昭和十二年十月「啄木の嘲笑」しいう文章で「取次ぎの者を通じて渡された名刺は確『石川一』とあるだけ、住所も肩書きもなかったと思います。ドアを排して入ってきたのは、まだこんな子供です。」「私の印象としては『青白い栄養不良少年ですね。』『御用はと尋ねると、テーブルの上へ風呂敷をひろげ、中から大分厚い原稿を取り出し、これを世に問うてみたいと思うがどこか出版屋に先生から紹介していただきたいという。』尾崎市長にすれば、そんなことを頼みに来たのかと、少々あきれもしたであろう。で市長は、「一体勉強盛りの若い者がそんなものにばかり熱中しているのはよろしくない。詩歌などは男子一生の仕事ではあるまい。もっと実用になることを勉強したがよかろう。という様なことをいって叱った。」とあり、最後の頼みも不調に終わり、叱られにいったようなことになった。
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
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