啄木と三人の女性        井上 信興
 石 川 節 子 (26) 完
 啄木の葬儀は翌四月十五日、土岐哀果の計らいで、彼の生家である浅草の等光寺で執行された。土岐は葬儀の様子を「啄木追懐」という文章で次のように述べている。「節子さんの借着の白無垢がいかにもにつかわしかった事と、遺骸を間に、数台の人力車が東門を出るときの情景が僕の瞳にきざまれている。」

 また「東京朝日新聞」は四月十六日の紙面で、葬儀の模様を「やがて会葬者はぼつぼつ集る。夏目漱石、森田草平、相馬御風、人見東明、木下杢太郎、北原白秋、山本鼎など先輩や友人などが見える。さいごに佐々木信綱博士がこられる。それに本社社員を加えて僅かに四五十名が淋しい顔を合わせた。人は少ないが、心からの同情者のみである。
啄木と節子の結婚写真
筆者提供

 程なく導師土岐月静師は三名の若い僧侶を具して淋しく読経する。終わって白衣の未亡人は可憐なる愛嬢京子を携えて焼香した。香煙の影に合掌せる母子の姿は多感なる若き詩人の棺と相対してさびしい。会葬者は斉しく涙した。続いて一同の焼香をすまし、式は終わって棺は五六人の人に守られ、町屋の火葬場へ担がれていった。」と報じた。ここに記された会葬者以外に、土岐哀果、金田一京助、佐藤真一なども当然参列していた。だが啄木の死亡する日、早朝から一人であれこれ世話をした若山牧水は葬儀には欠席した。精神的にも肉体的にも疲労したのである。

 啄木の肉体は二十六歳二ヶ月という短命で消滅したが、魂は百年を経過した今日、多くの愛好者や研究者に支えられて生きてきた。おそらく今後も永遠に滅びることはないであろう。彼が辞世の歌にいいと言った一首を掲げる。

      大木の枝ことごとく切りすてて
      後の姿のさびしきかなや    

 最後に、啄木の死後、妻節子について述べることにしたい。節子が房州から函館の両親のもとに帰ったのは大正元年の九月四日であった。すでに結核が進行していた彼女は、宮崎郁雨の世話で、翌年一月、豊川病院に入院させてもらった。しかし五月に入って危篤に陥り、五月五日ついに絶命した。

 郁雨は、金田一京助に宛てた書簡で、臨終の模様を次のように伝えている。「五月五日病院でなくなりました。なくなる時、鉛筆で京子のことよろしく頼むと書きました。それから与謝野さん、金田一さん、土岐さん、森鴎外さん、夏目さんの名を書いて、知らせてくれと言いました。それから私の顔を見て、私の妻になった妹を可愛がってやってくれと言いました。そして眼を閉じて、『もう死ぬから皆さんさようなら』と言いましたが、ニ三分してまた眼を開き、『なかなか死ねないものですね』と言った時はもう皆泣いていた時でした。それからもう一度『皆さんさようなら』と言って眼を閉じると、口から黄色い泡を一寸出しましたが、それで永久の別れでありました。」この書簡によって、節子の臨終の様子が遺憾なく伝わってくる。

 また啄木と親交のあった岩崎白鯨の文章を少し引いてみよう。「岡田館長と僕とで啄木の肖像画を節子さんに見せる為に病院まで持って行った。その時は見て貰ったらすぐ持って帰る積りで行ったのだが節子さんが咳きしながら一心に眺めているものを、とても持って帰るわけにはゆかなかった。こっそり岡田君に耳打ちして、飽きたら返して貰うことにして、画を置いて二人は帰った。それが僕にしては永遠の別れであった。しかしその日も、節子さんをひと目も見なかったといってもいい位であった。衰弱した彼女を正面に見ることは出来なかったのだ。僕は始終眼をそらして別な病人の方ばかり見ているようなことだった。」

 この啄木の肖像画は後に節子の肖像も描かれて、函館図書館の「啄木文庫」に二人並べて掲げられた。節子は啄木の肖像画を飽かず眺めていたのであろう。おそらく生前の啄木との生活が走馬灯のように甦ってきていたに違いない。こうした節子から、岡田、岩崎の二人は、この絵を取り上げるに忍びない、といった感情が湧いてそのまま置いて帰ったのであろう。
 渋民の歌碑: やはらかに 柳あをめる 北上の
        岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに
人物は筆者 井上 信興   〈筆者提供〉

 これまで引用した節子の記事は男子の書いたものだが、ここで女子の土岐哀果夫人の感想を引いてみたい。「私は女ですから、啄木さんのことはよく知りませんが、奥さんはほんとに偉かったと思います。主人は石川さんの晩年のもっとも生活上でもひどい頃から俄かに親しくお付き合いするようになったので、時々はその家庭の様子も聞かされましたが、その貧しさはほんとに、お話以上だったようです。奥さんは、今の若い女の人ならとても一日だってつとまらないと思われほど困難されたようで、主人なども節子さんなればこそだと言い言いしておりました。ほんとに節子さんのように偉い方なればこそあんな苦しみにも耐えられたことと思います。

 石川さんは亡くなってからあんなに名が挙がってその死を惜しまれているのですが、節子さんのことは誰も話にも筆にもしてくれないのは、何だか不公平のように思われてなりません。」節子に対する思いが遺憾なく述べられているが、私も同感である。

 節子があと十年生きていたなら、啄木の名声を聞くことが出来たであろうに、そうすれば私の目に間違いがなかったことを確認し、少しは慰められたと思うが、彼女の生涯を通観して見る時、夫啄木はきままに北海道から東京を流浪し、共に生活出来たのは東京での数年に過ぎず、渋民、函館、小樽での生活はそれぞれ一年にも満たない月日であった。節子がきらいな東京での生活にしても、意地の悪い母と、病気の夫を抱え、貧困に終始し、その上自分も病気をうつされるという、ただ耐えるだけの暮らしで、楽しい事のまったく無い生涯であった。土岐夫人が述べているように、節子だから耐えられたのであろう。啄木が絶命しその一年後、節子もまた夫の後を追うようにして天国に召された。
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
掲載にあたって