啄木と三人の女性        井上 信興
 石 川 節 子 (25)
 土岐哀果はこの「悲しき玩具」の交渉から編集、表題のすべてに関わって出版に協力したが、これだけではない。啄木の作品を世に出した功績は大きいと私は考えている。というのは大正八年「啄木全集」を「新潮社」から三巻本として出版させたからである。

 「新潮社」は現時点での啄木の知名度や評価では、とうてい全集を出すのは無理だ、と一応断ったが、土岐はねばった。その結果、「新潮社」はそれほど売れるはずはないと考えていただろうが、土岐の熱心さに負けて、しぶしぶ承諾してくれたのであった。 しかし出版してみると、二十数叛も売れたのである。これで啄木は全国的人気を持つ文学者であることがわかる。「新潮社」はこの結果をみて、以外だと思うと共に、土岐に感謝したことであろう。

 啄木の生涯を通して見ると、生活者としては低次元の人間であったが、その時々に彼を支えてくれた人物が七人ほどあったと思う。その中でも重要だと考えられる友人は三人で、啄木の生涯にわたって経済的援助を続けた宮崎郁雨、それに東京時代の生活を支えてくれた金田一京助、研究者からはこれまであまり重要視されてはいなかったように思うが、後の一人として私は土岐哀果を挙げたい。
土岐哀果
Wikipediaより

 彼は啄木の生前から死後にかけて、啄木作品を世に出す努力をしたからである。啄木の今日の名声も、土岐の支援がなかったら、これほど早く全国的にはならなかったかもしれない。また彼は啄木の死後、土岐を頼りにしていた節子は何でも相談していた。節子が土岐に宛てた便りは十四通ほど遺されているが、そのつど彼は誠実に対応してきた。したがって私は啄木一家にとって欠くことの出来ない人物の一人だと考えるのである。節子は啄木の死後、光子の世話で房州へ転地したが、ここでも収入はないのだから、この生活も三ヶ月で窮地を招き、土岐に七月七日の書簡で、当時の心情を伝えている。「夫が最後の朝も私は帰らないと言いました、」「私の本意ではありませんが、夫に対してはすまないけれども、どうしても帰らなければ、親子三人飢え死ぬよりないのです。」と言い九月四日函館に帰った。

 ここで啄木の終焉について述べることにしたい。啄木の死については節子が光子に宛てた書簡で、詳しく述べているので、引用してみたい。「熱は暮れの三十日から高くなって一月の末には三十九度台でした、氷をつけたのはお母さんの納骨の日からです。三月になってからどうしても今死ぬのは残念だといって、三浦というお医者にかかりましたが、その時もう駄目だと見切りをつけていたそうです。三時少し前に節子節子起きてくれと申しますから、急いで起きて見ましたら、ビッショリ汗になって、ひどく息切れがするこれが治らなければ死ぬと申しましてね、水を飲みましたが、それから少し落ち着いて、何か言うことがと、聞きましたら、「おまえには気の毒だった。」啄木は「今死ぬのは残念だ」と言っているが、彼にはこれからやろうと考えていたことも多かったと思うので、中途でその思いを断たれるのは、たしかに断腸の想いであっただろう。

 また「お前には気の毒だった。」と言ったとあるが、夫として欠点の多い自身を省みて、最後に節子へ詫びているが、彼女としてもこの言葉で、多少は癒されたのではないだろうか。もう少し続けると、「死ぬことはもう覚悟していましても、何とかして生きたい、という念はまだ充分ありました。いちごのジャムを食べましてねー、あまり甘いから田舎に住んで自分で作ってもっといいのをこしらへようね、などと言いますので、こういう事を言われますと、私は泣きました。」

 その翌朝、啄木の要請によって金田一が呼ばれた。「車屋にひどく門を叩かれて出て見ると、『石川さんからです。すぐこれへ乗って』という迎えだったのである。すぐその車で駆けつけた。上がって襖を開けると、寝ていた石川君の顔、それはすっかり衰容がきて、面がわりしたのに先ず胸を突かれたが、同時に『たのむ』と、かすれた声が風のように私の出ばなへかぶさって来た。

 そこへ若山牧水氏が見えた。」以下は牧水の「石川啄木の臨終」という文章が詳しいのでこれから引用してみよう。「駆けつけて見ると、彼は例の如く枯木の枝のように横たはっていた。午前三時頃から昏睡状態に入ったので、夜の明けるのを待って使いをだしたのだが、その頃からどうやら少し落ちついた様ですと細君は語りながら病人の枕もとに顔を寄せて大きな声で『若山さんがいらっしゃいましたよ』と幾度もいくども呼んだ。すると彼は私の顔を見詰めてかすかに笑った。そうして三四十分もたつと、急に元気がでてきて、ものを言ひ得るようになった。金田一氏もこの分なら大丈夫だろうからと、出勤時間がきたのでと言って出ていった。
啄木と金田一京助
筆者提供

 それから幾分もたたなかったろう、彼の容態が一変した。次第に瞳があやしくなってきた。私はあわてて細君を呼んだ。危篤の電報を打つように頼まれて郵便局に走って行き、帰って来ても、なほ昏睡は続いていた。細君は、口うつしに薬をそそぐやら、唇をぬらすやら、名を呼ぶやらしていたが、その内、母の死にも来なかった老父が、啄木の死が迫った頃には来ていて、私に向かって、『もう駄目です、臨終の様です。』と言った。

 啄木は遂にこの世を去ったのである。それは明治四十五年四月十三日の午前九時三十分であった。二十六歳と二ヶ月という若い命だった。啄木の死を見とったのは、父一禎、妻節子に娘京子、それに友人の若山牧水であるが、金田一は遂に間に合わなかった。

 老父は、私に一枚の紙を示した。歌一首が書かれていた。
         
         さきたちし母をたづねて子すずめの
         死出の山路を急ぐなるらむ

     老父もまた痩せて寂しい姿の人であった。」
    
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
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