啄木と三人の女性        井上 信興
 石 川 節 子 (24)
 佐藤にとって、啄木は同郷人でもあるし、その文才を惜しんだのかもしれない。金が入ると啄木は毎日発熱を繰り返す身を顧みず、徒歩では無理なので人力車に乗って、相馬屋へ原稿用紙を買に出かけた。帰途書店に立ち寄り、クロボトキンの「ロシヤ文学の理想と現実」を買って四円五十銭を支払った。

 杉村学芸部長は後にこの話を聞き、吉田弧羊宛の書簡で、「私は呆れました今日食うに困るからと思ってやった金で、クロボトキンを買うなんて、のんきとも没常識ともいいようがない。私は怒りかつ呆れました。しかし後になって考えると、これが如何にも啄木式のところと、改めて感心もし敬服もいたしました。」という。しかしこれが後三ヶ月後にせまっている啄木最後の贅沢であった。本はいいが、彼は原稿用紙を買っている。まだ書く意欲を持っていたのだ。
東京朝日新聞社
筆者提供

 この年一月末には母の病状は楽観できぬ状況になっていた。「今朝からすっかり床についてしまった母の、あの直視するに忍びないほど老衰した体を思うと、音がしなければ息が切れたのではないかと心配せねばならなかった。」自身の病気だけでも苦痛な上に、こうした母をかかえている彼には同情を禁じえない。

 その母も啄木夫妻がまったく知らぬ夜中にひっそりと息を引き取った。三月七日のことで、享年六十六歳であった。葬儀は土岐哀果の好意で、その兄が住職を勤める等光寺で営み、遺骨はこの寺に預けられた。

 啄木は病気中でも割合よく日記は書いていたが、この年遂に断念するに至った。それは二月二十日であった。「日記をつけなかった事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられていた。三十九度まで上がった事さへあった。さうして薬を飲むと汗が出るために、体はひどく疲れてしまって、立って歩くと、膝がフラフラする。さうしている間にも金はドンドンなくなった。」以下は省略するが、この日を最後に全く日記は書かれていない。病床に横たわっていても、とにかく金をつくることを考えるしかなかった。質草になるようなものはすでに無く。さりとて貸してくれる相手もいない。

 こうした時、常に要求を入れてくれた郁雨とは、つまらぬことで絶交を申し渡した今、唯一可能性のあるのは、歌集の原稿を売ることであった。

 歌集「一握の砂」を出版してくれた「東雲堂」に原稿を売る交渉を若山牧水に依頼したが、「東雲堂」と牧水との間に事情があるらしく引き受けられないため、結局土岐哀果がその任に当たることになった。歌稿ノート「一握の砂以後」この歌集は明治四十三年十一月から翌年八月までの十ヶ月に作歌された百九十二首であるが、他に紙片に書かれた二首を加えて百九十四首であった。前歌集「一握の砂」からすれば、いかにも歌数が少ないので、「一利己主義者と友人との対話」と「歌のいろいろ」と言う二作の文章を入れて、体裁を整えた。この歌集が「一握の砂」と違うのは、記号を使っている点と字下げのあることである。たとえば巻頭の、

  ・呼吸すれば、
     胸の中にて鳴る音あり。
      凩よりもさびしきその音

   ・友も妻もかなしと思ふらしー
    病みても猶、
       革命のこと口に断たねば。
                         といった形式を採用している。

 しかし私などの考えでは、鑑賞者にとってそれほど効果のあるものとは思えない。また「一握の砂」と顕著な差が見られるのは、歌材である。「一握の砂」には少ない、または無かった、家族の歌、病気の歌、思想の歌などである。前歌集の頃は健康状態も悪くなかったから当然病気の歌はなかったが、後者では五十首ほどもあり、また思想歌は官憲の目を考えていただろうから入っていない。啄木は家族を置いたまま手前勝手に行動していたから、歌材はいくらでもあり、家族には思いがおよばなかった。しかし病気で入院すれば外とは遮断されることから、家族に目が向いたのであろう。

    病院にきて、
    妻や子をいつくしむ
    まことの我にかへりけるかな。

 この歌に彼の心情の変化を見ることが出来る。これまで家族を省みなかった自身の反省といった気持ちの表白なのだ。

 さてこの歌集であるが、土岐は啄木の依頼によって「東雲堂」との交渉に当たった。その結果二十円で買い取ってくれた。土岐はこの歌集の「あとがき」で、「受け取った金を懐にして電車に乗っていた時の心もちは、今だに忘れられない。一生忘れられないだろうと思ふ。石川は非常によろこんだ。氷嚢の下からどんよりした目を光らせて、いくたびもうなづいた。」そして「帰りがけに石川は、襖を閉めかけていた僕に『おい』と呼び止めた。立ったまま『何だい』と聞くと『おい、これからもよろしくたのむぞ』と言った。これが僕の石川にものを言はれた最後であった。」

詩集「あこがれ」の表紙
筆者提供
 そしてこの歌集「一握の砂以後」では「一握の砂」とまぎらわしいから、と言う理由でクレームが付いたため、土肥は、「歌のいろいろ」の最後にある、「歌は私の悲しい玩具である。」からとって歌集名を「悲しき玩具」としたが、啄木は歌をおもちゃ程度にあつかっていたから、土岐の選択はきわめて適切で、もし啄木が元気であったらどういった表題にしたかについて私は大変興味をもっているが、はたして土岐以上のよい題名にしたかどうか、疑問だと思うが、土岐の命名した「悲しき玩具」には啄木も満足できたと思う。

 土岐は、紙片に書かれた二首がいい歌なのでこれを巻頭にかかげて、後はノートの順番どうりに編集した。

 私は「一握の砂」より「悲しき玩具」の歌が好きだが、この歌集は啄木の死後出版されたので啄木は悲しくも手にすることは出来なかったのだ。
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
掲載にあたって