啄木と三人の女性        井上 信興
 石 川 節 子 (23)
 大正十三年に至り、本格的な墓碑建設の具体的案が発表された。この話を聞きつけた光子は、私に一言の相談もなく家族の遺骨を故郷でもない函館に持ち帰って墓碑まで建てようとしている。光子はこの計画に我慢が出来なかったのである。

 しかし函館の友人は節子の父に依頼して、啄木の父一禎和尚に連絡し、「そちらで適当に処置してほしい」という許可をもらって事に当っているのであって、光子に相談する必要はなかった。

 この計画は節子と郁雨が示し合わせて決めたに相違ない、と思った光子は、これまでこの二人とは良好な関係にあったが、ここに至って一挙に崩れ、報復を計画した。「不愉快な事件」を利用し、節子と郁雨との間に不純な関係があったような発表をしたのが大正十三年で、「それは啄木の妻節子さんの反逆です十三年の長い間、私は沈黙していました。けれども之はあまりにも苦しい沈黙でした。もう私は沈黙が出来ません。おおいなる悲しみと大いなる怒りとが込み上げてまいります。」この新聞記事の発表が、啄木の墓碑建設と同じ時だったということは、「不愉快な事件」とは無関係であることが解る。この事件というのは啄木、節子、郁雨の三人に関する問題であって、光子にはまったく関係はない。それがどうして、光子にとって十三年もたってから「悲しみや怒り」が込み上げてくるのであろうか。

 それは啄木一家の墓碑を函館に建設したことに対する悲しみや怒りであろう。したがって大正十三年という年が「不愉快な事件」を解く重要な鍵だと私は考えている。光子の書いた新聞記事や著書と丸谷の「覚書」などは創作的なでたらめであって、信用する必要のないものだから、無視していい。

 郁雨の談話だけが信頼できる。節子が郁雨に手紙を出さなかったら、郁雨は返事を出す必要がないから、郁雨は、この事件については被害者といえる。彼自身も、「この問題に対する被害者は私ひとりで沢山です。これ以上つついて被害者を出すことはないでしょう。」と述べて他の関係者をかばっているが、これも郁雨の優しさであろう。
渋川部長
筆者提供

 こうした状況の中で、明治四十五年という啄木の生涯にとって最後の年を迎えた。元日の日記に、「今年ほど新年らしい気持のしない新年を迎へたといふよりは寧ろ、新年らしい気持ちになるだけの気力さへない新年だったといふ方が当っているかも知れない。」「暮の三十日から三十八度の上にのぼる熱は、今日も同様だった。」そして「元日だといふのに笑い声一つしないのは、おれの家ばかりだろうな。かう夕飯の席で言った時には、さらでだに興のない顔をしていた母や妻の顔は見る見る曇った。」これが啄木一家の何ともやりきれないような暗い元日の姿である。

 そしてまた、「妻はこの頃また少し容態が悪い。髪も櫛を入れず、古着の上に寝巻を不恰好に着て、まったく意地も張りもないような顔をしていて、時々激しく咳をする。私はその醜悪な姿を見る毎になんとも言えない怒りと自棄の念に捉へられずには済まされない。」節子は普段身支度をきちんと整える性格の女性であったことは、郁雨が彼女に好感をもった点の一つであったと述べているから、啄木が言うような状態になったとすれば、節子の体調もかなり悪くなっているものと考えられる。

 こうした状況の中で、またこの一家に不幸が訪れた。母かつが喀血したのである。啄木は次のように述べている。「今夜熱を測ったところが三十八度二分、脈拍一○二あった。医者に診せたくとも金がない。兎も角ニ、三日寝ていてもらうことにした。

 私の家は病人の家だ。どれもこれも不愉快な顔をした病人の家だ。皆肺病になって死ぬことを覚悟しているのだ。そんなことを今朝言ってみた。私の熱も三十八度一分まで上がった。そうしてもう薬がとうに尽きている。」啄木一家も遂に最悪の事態を迎えることになった。
佐藤北江 編集長
筆者提供

 とにかく金をつくらねばならず、これまで殆どの知人に借金してきたから、無理がいえず、思い出したのが借りたことのない森田草平であった。彼にこまごまと事情を書いて金策を依頼してみた。森田とて楽な生活をしていたわけではないから余分な金があるはずはない。彼は、啄木のために何とか助けてやりたいと考え、出入りしている文学上の師、夏目漱石の夫人から十円を借りて啄木に届けた。これで近くの三浦医師の診察を受けることが出来たのである。

 母はすでに末期の結核であった。当時は予防法も確立していない上、治療薬もなかったのであるから、死因の第一位を占めていた。したがって、死病として恐れられていたのである。結核患者が出ると、家族に感染する危険は大きく、啄木や節子も母かつからうつされたのである。啄木はこの事実を前にして、「私は今日といふ今日こそ自分がまったく絶望の境にいることを承認せざるを得なかった。私には母をなるべく長く生かしたいといふ希望と、長く生きられては困るといふ心とが同時に働いている。」と述べているが、ここには彼の悲しくも偽らざる悲痛な感情が読みとれるが、彼の実感であろう。

 そうした頃、社の杉村学芸部長から通知がきて、社員十七名から集めた義援金三十四円四十銭に新年酒肴料三円を加えて、佐藤編集長がわざわざ届けてくれたのである。啄木は「感謝の念と、人の同情を受けねばならぬ心苦しさが嵐のやうに私の心に起こった。」と述べている。

 小説を書くといっては社を休み、前借は繰り返す、その上病気で長期の欠勤はする。こうした社員は会社にとって決して良い社員ではなかった。事実、渋川部長が佐藤編集長に対して、「石川をどうする」という解雇についての話があった。そのとき佐藤は、「まあほっといてくれたまえ」と答え、佐藤の温情によって、何とか啄木の首がつながったのである。一般的にいえば、解雇されてもしかたがないケースだ。
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
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