啄木と三人の女性        井上 信興
 石 川 節 子 (22)
 丸谷は啄木が読んでみてくれといって差し出した手紙を読まなかったと返事しているのである。「およそ他人の手紙は成るべく読まないということが、私の方針であったからである。」というが、読んでみてくれと言って差し出された手紙を、まず読まない人は無いと思う。

 無断では読まないというのなら話は解るが、これにはなんらかの理由を私は感じた。私の推測では、光子の著書「兄啄木の思い出」に丸谷は「啄木と私」という文章を載せている。こうした光子と丸谷との関係から、光子の記述についての批判は出来ないとの考えから、実際は手紙を読んでいるにもかかわらず、光子の記述に対する疑問を阿部に答えることができず、読まなかった事にしたほうが無難だと判断したものと私は考える。

 それから約一年後、これは阿部への返信として書かれたのであるから、つまり私信である。それを一部訂正して大阪啄木会の機関紙「あしあと」に発表したのである。訂正した部分というのは「他人の手紙はなるべく読まないというのが私の方針だ。」という部分を消し、「私はざっと愚目するにとどめた。」とあいまいな表現を使っているが、読んだということに変わりはない。

 阿部の質問には、光子のいう「貴女一人の写真を撮って送ってくれ」とか、啄木が言ったという丸谷の記述、「宮崎さんが私と一緒に死にたい」などということが実際に書かれていたか、と言う点にあったと思うが、丸谷はその事実はなかったので、光子の記述に配慮して読まなかったことにしたものと考えられる。

 阿部の質問状に対して、丸谷の「覚書」による返信に一ヶ月以上もかかっているのは丸谷が返事に窮し、どう返事すべきかを光子に相談した結果でないかと私は推測している。普通の考えからすれば、十日もあれば返事は出来ると思うからである。

 とにかく、光子、丸谷の記述は阿部にすれば全く信用できないので、手紙を節子に出した本人である宮崎郁雨に阿部はその事実を聴取することにした。郁雨という人物は積極的に自己の弁明をするような人ではないから、もし阿部が聞かなかったら、この問題は解決できなかっただろう。

 郁雨の談話は次のようになっている。
 「その頃野営演習で、七週間ばかり召集されて、美瑛の野に行っていて、そこから節子さんに手紙を出したことはあるが、それは節子さんから、病気が良くないといって来たのに対する返事である。二年前の私の結婚のとき、盛岡へふき子を迎えに行って、東京から来た節子さんと会った村上のおじが、『節子のやつ変な顔をしていたぞ、あのまま置くと死んでしまうぞ』と言った言葉が耳に残っていたので、病気が良くなければ、一日も早く実家の堀合へ帰って静養するのが一番だ、とすすめてやったのであった。写真を送れなどと言ってやったことはない。」と、はなはだ明確に証言している。

 ここで大事なことは、郁雨が節子に宛てた手紙というのは、節子から来た手紙の返事だということである。つまり節子が相談なりしてきた件に対して「病気が良くなければ、実家の堀合へ帰って静養するのが一番だ。」と、節子の相談に郁雨がそれに対処したということであるから、まったく問題になるはずはない。郁雨は当時砲兵将校として演習に参加していたのだから、真面目な彼が、軍務に精励したはずで、光子の発言や、丸谷に啄木が話したようなつまらぬことを書くはずはないのである。

 啄木が話したという、「宮崎さんが私と一緒に死にたい」と言う文句は節子が書いたのであろう。というのは当時の節子の状況は、啄木は彼女を実家へは帰さず、実家とは絶縁して通信することも許さず、母かつとの間はますます悪くなり、その上結核を移され、楽しいことのまったくない節子の生活を思うとき、「死」を意識しても不思議ではない。郁雨は節子の手紙を読んで、危険を感じたのであろう。

 環境を変えるには実家に帰るのが一番だと考えてああ書いたのであって、他意はなかったのだ、だが啄木とすれば、他人が自分の妻に実家に帰るように指示してきたのでは、主人としては面目丸つぶれで我慢がならず、郁雨に対し遂に絶縁状を送ったのである。啄木の気持もわからなくはないが、郁雨の経済的支援を得られなくなれば、一家の生活は益々苦しくなることは確実である。

 つまりこの問題は、節子が郁雨に送った手紙が問題の発端であって、その内容は郁雨が証言しているように、光子や丸谷のいうような色恋沙汰には全く関係がないのであって、啄木のいう「不愉快な事件」といったのは前記したように、郁雨が節子に実家に帰るように指示されたのでは、啄木にとっては不愉快なことであったに違いない。

 この問題の発端となったのは啄木や節子がすでに死去して十数年経過した時、光子が阿蘇にいた大正十三年という時期に「九州日々新聞」になぜ記事を発表したのか。これには明快な原因があったと私は考えている。この問題にたいして明確な理由を述べた文献はなかったと思う。
函館の啄木墓碑歌碑
筆者提供

 節子は函館の豊川病院で療養していたが、心にかかっていたのは、東京の寺にあずけていた真一、母かつそれに啄木の遺骨であった。父一禎や光子にしても、とうてい自身で墓碑の始末は出来ないと判断した節子は、郁雨に相談して函館図書館長の岡田健蔵が上京するので遺骨を持ち帰るように依頼した。

 この件については事前に節子の父が、小樽にいる一禎和尚に手紙を出して遺骨の扱い方を相談した。その返事は「そちらで適当に処置するように」といった自身の家族の処置にたいして、まるで他人事のような返事が返ってきたのである。

 函館の友人達はこの返事に憤慨し、墓は断然函館に建てるという決意に固まったのである。遺骨を何時までもそのままにもできず。啄木の愛した大森浜を見下ろす立待岬に棒杭一本の墓碑を立てて葬った。       
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
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