啄木と三人の女性        井上 信興
 石 川 節 子 (21)
 節子の里帰りもけりがついて啄木の気持ちも落ち着いたこの年六月、詩が泉のように噴出した。啄木が詩に転換した時も多くの詩を作っているが、この度も短時日にかなりの作品を残している。

 前に出版した「あこがれ」ではもう満足できなくなっていた彼の詩観の変化、つまり「両足を地面にくっつけていて歌う詩」とか「実人生と何等の間隔なき心持をもって歌う詩」ということである。これらは「呼子と口笛」という詩集になる予定であったが、出版にはいたらなかった。この内最後にある「飛行機」という詩はとくに有名であるから、引用してみたい。

        「飛行機」
        見よ、今日も、かの青空に
        飛行機の高く飛べるを。

        給仕づとめの少年が
        たまに非番の日曜日、
        肺病やみの母親とたった二人の家に居て、
        ひとりせっせとリイダアの独学をする眼の疲れ、

        見よ、今日も、かの青空に
        飛行機の高く飛べるを。

 啄木の詩「呼子と口笛」に関する感想を草野心平は「啄木の詩について」という文章で
次のように述べている。「現在でもなほ新鮮で、切実で、強い迫力を持っている。社会主義詩については、リアリズム詩の先駆的作品として記念碑的存在であることは今になって更に疑ふ余地がない。」という。私などもこの記述に賛成である。

 啄木はやはり歌人というよりも詩人なのだ。 この年も夏に入って、彼の体調は一段と悪化していた。日記にしてもほんの数行しか書かれていない。それも高熱が続いている上、節子も感染して容態がわるい。

 こうした一家に対して、部屋を貸している床屋から他に移るように言われ、節子が貸家を見付けてきて、久堅町の一軒家に転居した。啄木は荷造りを手伝う元気をすでに失い、荷物の間に横になっていたのだ。「十一時車にて新居に入り直ぐまた横になりたり。」と日記に書いているから、もう啄木の最後はそう遠くはない。

 同居していた父一禎は再び家出を決行した。啄木がこの調子で、節子の具合も思わしくない、その上窮乏の生活に耐えられず、野辺地の対月を頼って行ったのであろう、家出の前例がある父一禎のことだから、家族に動揺はなかった。

一禎と対月
筆者提供
 この一禎という人物は渋民の寺を追われてから、全く働く意欲がなく、縁類をたよって泊まり歩くといった生活に終始しているが、私などが考えれば、日数と時間はいくらでもあるのだし、僧侶という身分もあるのだから、托鉢に出たならどうかと思うのである。鉢をもって家々を回れば喜捨を受け、米なり金なりを頂けるわけで、自分の働きで家族の生活に多少でも貢献できるのだから、親戚を頼らずに、必要な家族の一員として安住できるように思うのである。

 その頃節子に宛てた一通の手紙が届いた。差出人は当時砲兵将校として旭川師団の演習に参加していた宮崎郁雨からである。この手紙は節子が外出中に届いたので啄木が開封し、「不愉快な事件」とか「晩節事件」などと言われ有名になったのは、妹光子が、熊本の阿蘇にいた大正十三年四月十日から十三日にかけて「九州日日新聞」に連載した「兄啄木のことども」と言う記事の最終回にある「最後の痛手」が問題の記述である。

 関係する部分だけ引用すると、「嗚呼啄木はその手紙を読まねばよかった。もし彼がその手紙に眼をふれなかったならば、彼は愛妻の手厚い看護に守られつつ苦しいけれども、併し、平安な死の眠りに就いたであろうものをー思へばその一通の書信こそ彼が生命をとした恋の仮面を引きむしるものであったのだ。すべての事がわかったのです。

 妻は他に愛人を有していました。何たる呪はしいことでしょう。」この記事は原稿用紙で三十枚ほどであるが、熊本の地方新聞に発表された関係で、当時はあまり問題にはならなかったようだが、戦後の昭和二十二年になって、丸亀で啄木についての座談会があった時に、どうしたことか光子は出席せず、夫の三浦精一牧師が出席していたのである。

 彼は「節子は啄木の妻でありながら、実は愛人があり、しかもただならぬ関係にまで入っていた。」と述べた。この夫は啄木とは全く関係のない人物であるから、啄木についての知識はなかったと思うので、彼の談話はすべて光子が伝授し、こうした指摘は問題を残す可能性があると考えたのであろう。光子自身に代わって夫精一に発表させたのだと私は思っている。

 この談話を「毎日新聞」が記事にし、全国に報道されてから問題になった。以後節子の「晩節問題」として啄木研究者に取り上げられて現在にいたっている。

 光子は後に著書を出版して、手紙の内容を詳細に述べている。その中で「貴女一人の写真を撮っておくってくれ。」と書かれていて、その手紙は匿名で差出人の氏名はなかったという。

 一方、当時啄木と親交のあった、後に経済学者になる丸谷喜市が啄木を訪問した際、例の手紙を読んでみてくれと言って彼の前に差し出した。しかし丸谷は手紙の宛名を一見しただけで宮崎郁雨の字体であることがわかったという。丸谷は郁雨と函館商業学校の同級生であるから、郁雨の字はよく知っていたのである。啄木は「宮崎さんが私と一緒に死にたい。」と書かれていたように話したという。またその裏面には三字の氏名が書かれていたと、丸谷は述べている。

 函館の医師で啄木研究者でもある阿部龍夫は、光子や丸谷の話に疑問を持ち、丸谷に対して質問状を送った。その返事が来るのに一ヶ月以上もかかったが、それは「覚書」という形をとった返信であった。阿部は当然満足いく返信を期待していたと思うが、その内容は期待に反し、全く信頼出来る内容ではなかった。 
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
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