啄木と三人の女性        井上 信興
 石 川 節 子 (20)
 私が「大逆事件」について強い関心を抱いていたことから可能な限り調査して記述したが、高齢の人には記憶されている方もあろうかと思うが、若い世代の人はあまり知られていないのではないかと考えて、この機会に一応この事件について詳細な記述を試みたので少々長文になったが、次に移ることにする。

 明治四十四年一月「読売新聞社」に勤務する土岐哀果から啄木に会いたいという連絡が入った。翌日啄木は会社が引けてから「読売新聞社」に土岐を訪ねて彼を連れて帰宅した。土岐の歌集について好意ある書評を出したことから、土岐は啄木に会ってみたいと思ったのであろう。土岐と啄木は共に宗家の出で同じ歌風を持ち社会主義に関心をいだくなど類似する点が多ので、すぐに意気投合し、例によって文芸雑誌出版の話がまとまった。啄木の木と、哀果の果をとって「樹木と果実」という表題が決まった。

 しかし出版社の依頼した印刷屋のトラブルから、なかなか仕事がはこばず、そうしている間に啄木の体調に異変が生じたのである。それは明治四十四年一月のことである。その経過を彼の日記から抜いてみよう。
宮崎郁雨「函館の実家」
筆者提供

 一月二十九日、何だか身体の調子が変だった。腹がまた大きくなったやうで、座っていても多少苦しい。社を休む。
 一月三十日、今日は出社した。仕事をしていると大分苦しい。

 二月一日、午前に又木君が来て、これから腹を診察してもらいに行かうといふ。大学病院の三浦内科へ行って、正午から一時までの間に青柳医学士に診てもらった。一目診て「これは大変だ」と言ふ。病名は慢性腹膜炎。一日も早く入院せよとの事だった。まだ何だかホントらしくないやうな気がした。然し医者の話をウソとも思へない。医者は少なくとも三ヶ月かかると言ったが、予はそれ程とは信じなかった。然しそれにしても自分の生活が急に変わるということは、確からしかった。予はすぐに入院の決心をした。

 啄木は暢気なことを言っているが、この病気の難病であることが理解されていないようだ。慢性腹膜炎は殆どが結核性で時日の経過と共に次第に全身の衰弱が進み、死に至るといった経過をとることが多いのであって、彼には後いくらも命が残っていないという予想はつく。日記を続けると、

 二月七日、手術を受けた、下腹に穴をあけて水をとるのである。
       ゴムの管を伝って落ちるウイスキー色の液体が一升五合ばかりにもなった時、
       予は一時に非常なる空腹に襲われたように感じて、
       冗談を言いながら気を遠くした。
 二月八日、昨日の手術の結果大そう楽になったが、その代り何となく力がなくなった。
 二月十日、午後少し熱が出た。水も少したまった。
 二月十二日、また少し腹が膨れた。
 二月十三日、退屈な夜だった。廊下を一周して来てやや疲れを覚えた。
         予はそろそろ病院生活に飽きて来た。
 二月二十日、夜に同室の人々と社会主義について語った。
 二月二十二日、今朝深呼吸をすると少し右肺の底に痛みがあった。
 二月二十五日、夜発熱終夜殆ど眠らず。
 二月二十六日、熱四十度、終日下がらず。
           これは右胸の湿性肋膜炎を併発したためである。
 三月四日、朝少し気分がよかったが、夕方からまた悪くて夕飯をよした。
        つくづく病気が厭になった。
 三月十三日、熱は昨日も今日も七度台にいる。医者に早く退院したいというと、
         もう少し我慢したまへと言った。三月十五日、午後退院した。
 以上が入院中の経過を彼の日記でたどってみた。

 退院したといっても病気が良くなったということではない。病院はまだ無理なことは承知で、彼が療養にあまり熱心ではないことから、啄木の希望を入れたのだと思う。帰宅したのはよかったが、翌日から高熱が三日続いた。

 心身の衰弱は明らかであり、その頃、盛岡の節子の実家が家をたたんで、函館に移転するという通知があった。私の推察では郁雨に相談したのではないかと考えている。郁雨に嫁いだ節子の妹も居ることだから、傍ですみたいという希望もあったと思う。 

節子としては、函館に行ってしまえば、何時会えるかもわからない。また家を売った金を少しは貰いたいとも思ったのであろう。啄木に盛岡へ行くことを懇願したが許されなかった。前回の「家出事件」の際の啄木は全面降伏の有様であったが、今度は違っていた。「京子を連れずに一人で帰れ」そして離縁を申し渡したのである。

 しかし彼女は出て行かなかった。そして実家からは電報が入った。「アイタシスグコイヘンマツ」とある。そして翌日にも「○ヤッタスグコイヘンマツ」とし電報為替で五円が届いた。啄木はこの金をすぐに実家へ返送させたのである。彼の厳しい処置に、節子は「気狂になるようだ」といって泣きわめいたという。

 この件があって啄木は節子の実家と絶縁したのである。どうしてか妻の実家の指示で行動することに抵抗するのだが、「もしそちらで自分の妻に親権を行おうとするなら、それは自分の家庭組織の観念と氷炭相容れぬものだから離婚する。」とまで手紙に書いている。

 普通一般的な家庭の考えからすれば、節子や両親達の気持ちは十分理解できるのであり、旅費まで送ってきたのであれば、帰してやるというのが常識であろう。啄木のいう「もしそちらで自分の妻に親権を行おうとするなら、それは自分の家庭組織の観念と氷炭相容れぬものだから離婚する。」などという深刻な問題だと誰も思うものはあるまい。
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
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