啄木と三人の女性        井上 信興
1. 石 川 節 子 (2)
 生活についてなんの準備もない彼は夜汽車にゆられながら、前途に対する希望と不安との交錯する中で、一夜をすごしたことであろう。この汽車が上野に着いたのは十時であった。中学二年上級だった詩を書く友人の細越夏村を訪ねた。彼の紹介で小日向台の大館光方へ下宿をきめた。

石川 啄木
出典:ウィキペディア
 啄木は持参した生活資金も多くはなかったので、収入を考えるのが先決であったが、英語力には自信があったので、翻訳を売って収入をはかろうとしたが、中学中退の子供の翻訳など相手にしてくれる出版社などあるはずはない。彼にはまだ社会の常識というものがわかっていなかったのである。節子は啄木の才能を信じていたから、きっと成功して帰郷することを願っていたと思う。

 ある日啄木へ節子からの手紙が届いた。彼女は新しく写した写真を同封してきたのである。彼はその写真を枕元に置いて眠った。「朝目覚むれば、枕元に匂ふ白百合のみ姿あり」と日記に書き、そしてその夜「前途を想い恋人を忍びては万感胸に溢れて壊泣のときを重ぬること三時までに及びぬ」「ああ吾のみは寂しくも異郷の月に年越の袖振らなんか。」とも書いているから、啄木もこのあたりにきてやや感傷的になっていたのだ。そしてこれまで書いてきた日記も十二月三日で途切れ、十九日になって「日記の筆を絶つことここに十六日、その間殆ど回顧の涙と俗事の繁忙とにてすぐしたり」とあり東京での日記は以後書かれていない。上京以来一ヶ月ですでに挫折しているのである。

石川啄木記念館(渋民小学校)
出典:いわての旅
 東京での生活は収入がないから持参金が尽きれば破綻するのは最初から予想されたことである。彼は上京さえすれば何とかやっていけるだろう、といった安易な考えしかなかったのだ。下宿代が支払えないので上京当時机や本箱など整えた家具の持ち出しもゆるされず、着の身着のままで追い出され、遂に放浪者に転落していった。

 この時から六年ほど後に「樗牛死後」という原稿用紙にして三枚半ほどの未完というより断片に等しい記述がある。おそらく自然主義的私小説を意図したものと考えられるが、何らかの事情で中断したのであろう。啄木が挫折した以後の生活を遺憾なく述べているので彼の当時の生活状況を知る上で参考になる「下宿を追い出された私は、年端もゆかぬ身空で、経験もなければ知恵もなし、行き所に困って、二三日市中をうろつき巡った挙句に真壁六郎という同年輩の少年と、ある鉱業会社の分析課に勤める佐山という人の好意でその下宿に二十日ばかりも置いてもらった。一月下旬から二月中旬にかけての寒い盛りだった。」と書いているが、この記述をもう少し引くと、「私は真壁と二人差し向かいに行火にあたっていて、瓦屋根の見る見る白くなってゆくのをぼんやりと眺めながら、冬の郷里のことをいろいろと思い出し、終には声を挙げて泣きたい位、自分の現在の全然目的も励みもない、身も心も腐って行くような果敢ないその日その日が悲しくなった。私の眼からは止め度もなく涙が湧く」「そして午後になると、前日あたりに着ていた木綿の紋付を質に入れて得た金の残額で、真壁と二人、一膳飯屋へ行った。」この文章は創作ではない。事実を赤裸々に綴ったものであろう。

 それにしても上京以来これまでよく耐えたと思う。放浪者という精神的打撃に、食事も満足に出来ない生活を続けていたのであるから、心身ともに衰弱していたのは確かで、やがては死さえ迎える事態を招くことになろう。

 彼もここに至って限界を感じたので、親元へ現況を伝えて援助を求めた。これまで東京での生活は殆ど報告していなかったから、両親としては、どうしているのかその心痛は一方ではなかった。妹光子の「兄啄木の思い出」によれば「長い間音信が絶えてしまったので、両親は心配のあまり、心あたりの人々に問い合わせたり、中学の同級生の方々をたずねあるいたり、とても見ていられないような心配のしかたであった。」という。啄木を唯一の頼りにしている両親としては、上京したまま行方不明とあっては、なんら仕送りもしてやれなかっただけに、その心痛は想像以上のものがあったと思う。

野口雨情そして啄木
出典:渓水社
 そうしたある日のこと、六銭も切手を貼った分厚い手紙が届いた。「見ると『神田にて』とだけ記された封書。もちろん兄の筆跡であることは一目でわかった。親子三人顔をそろえて待ちに待ったその手紙をていねいに読んだ。」「兄が東京で病気にかかっていると言うのがその手紙の主文で、それについてかなりの借金も出来たから、なんとかしてほしいというのであった。」両親はこうした事態になることを心配していたと思うが、手紙を読み愕然としたことであろう。このうえは至急に上京して一日も早く彼を連れ帰ることに相談がまとまったが、それにつけても寺には十分な資金はなかったから、やむなく檀家の総代にも相談せず、裏の万年山の栗の木を売ることにしてとにかく二十円の資金をつくり父一禎和尚は上京したのであった。彼は最愛の息子を救うために、後先を考える余裕はなかったのである。したがって持参した金では下宿やその他の借金を返済することができず、そのまま残したのである。

 啄木が死亡した夜、金田一京助が一禎和尚から直接聞いた話だが、「厳父が須田町の宿に、やっと君を連れてきて、さあ帰郷しようと、一円七十銭の宿料に五円紙幣を出して、女中が持ってきた釣銭を、厳父が手を出すより早く、『これはお前にやる』と女中に押しやった」という。この一件を見ても、あれほど金に困った人間のする事ではなかろう。父にしても有り余る金を持って上京したのではない。無理して作った金である。二十円と言う金額は、盛岡東京間の汽車賃が、片道が四円二十六銭であったから、帰途は啄木と二人で三回分の合計は十二円七十八銭ということになる。それに前記した宿賃五円を加えると、十七円七十八銭となり、残金は二円二十五銭しかない、二人の食事代などを考えるとほとんど余裕などはないのである。啄木は父がきてくれたので安心したのか、自分の金でもないのに、父を困らすような勝手な振舞いをする身勝手な人間だということである。

 啄木は心身ともに衰弱した身を父に伴われてふるさと渋民の寺に四ヶ月振りに帰ってきた。しばらくは屈辱に耐えながら衰弱した体の快復に努力するのが先決である。親の意見にしたがって村の瀬川医院に通院し、その往復は適当な運動にもなった。衰弱した身体さえ治ればやがて文学に対する意欲も湧いてくるはずである。帰郷して三ヶ月ほど経った頃には体調もかなり快復していた。そうなると、ただ敗残の身を村人や友人の冷笑の前に晒し、その屈辱に耐えているばかりの啄木ではなかった。
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井上信興先生の
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