啄木と三人の女性        井上 信興
 石 川 節 子 (19)
 かって例のない「大逆事件」もついに最後の日がきた。明治四十四年一月十八日、幸徳らの特別裁判判決の日である。判決は二名を除く二十四名に死刑が決定した。しかし二日後、大命により半数の十二名が無期懲役に減刑されてこの事件も終わった。

 啄木はこの日の感想を次のように日記に記している。「今日ほど予の頭の興奮した日はなかった。その後、これほど疲労した日もなかった。二人ほど残して後は皆死刑だ、予はそのまま何も考えなかった。ただすぐ家へ帰って寝たいと思った。日本はダメだ、そんなことを漠然と考えた。
 判決から六日目の一月二十四日幸徳はじめ十一名の死刑が執行された。
 
徳富蘆花
Wikipediaより

 唯一人の女性死刑囚菅野すがは翌朝執行されてこの事件も終結するにいたった。菅野すがで私を感動させたのは「針文字による手紙」であった。彼女は獄中で、針をもって紙に穴を開け、横山弁護士に手紙を書いたのである。文面は「爆弾事件ニテ私外三名近日死刑ノ宣告ヲ受クベシ幸徳ノ為ニ何卒御弁護ヲ願フ切ニ切ニ六月九日彼ハ何モ知ラヌデス。」というものだが、彼女の幸徳に対する愛情が私にまで伝わってくるようで、心にしみるものがある。菅野すがは、最初荒畑寒村の内縁の妻であったが、後に別れて諸所を渡り歩き、事件当時は幸徳秋水の許に居た。したがってこの事件に関係なかった幸徳を何とか助けたいと思ったに違いない。

 しかし彼女の願は空しく、幸徳は刑場の露と消えた。少々疑問のあるのは、彼女がどうして留置所に針などを持ち込めたか、ということと、手紙の消印が牛込局になっているから、誰かが出したに違いない。だがこの手紙は彼女以外の誰かが彼女のために書いて出したのだろう、といった説もあるが、私は文面の切実さから言って本人が書いたものと考えている。

 ここで特記すべき作家は徳富蘆花である。文章でこの事件を扱った作家は多いが、蘆花は直接行動に出た唯一の作家であった。彼は幸徳など十二名の死刑囚を助けるために、天皇に直訴を企てたのである。最初彼の兄である「国民新聞」の主筆徳富蘇峰が桂首相と懇意なので彼に手紙を託し減刑を依頼したが、蘇峰は無理だと判断したのであろう。その為に動いた形跡はなかった。

この件について「天皇陛下に願い奉る」とう「嘆願書」を執筆し、今度は「東京朝日新聞」主筆の池辺三山へ送ったが、当時こうした文書が新聞に発表できるわけがないことは承知していた。しかもこの手紙が三山の許へ届いたのは十二名の死刑執行の翌日であった。この「嘆願書」というのは、「今度幸徳伝次郎等二十四名の者共不届千万なる事仕出かし、御思召の程も奉恐入候。然るを、天恩如海十二名の者共に死滅一等の恩命を垂れさせられ、誠に無勿体儀に奉存候。御恩に甘へ申す様に候得共、此上の御願には何卒幸徳等十二名の者共を御垂憐あらせられ、他の十二名同様に語恩典の御沙汰下度伏して奉願上候。」「成る事ならば御前近く参上し心腹の事共言上致度候得共、不躾ながら遠方より申し上げ候。願はくば大空の広き御心もて、幸徳等十二名おも御罷免あらんことを謹んで奉願侯。叩頭百拝。」というものである。

 池辺三山は、「御託しの一篇は小生手元に保存可仕候間左様ご承知給はるべく候。」と蘆花に返事を出した。しかしこの文書が実際には何処で保管していたのかは明確でない。というのは戦後の三十一年、野田卯太郎が半紙二枚に書かれた「嘆願書」や蘆花に宛てた返信の下書などを古書店で入手しているからである。だが徳富蘆花という人物は幸徳秋水と特別な関係があったとは思えないが、私を驚嘆させたのは、蘆花夫人に語った言葉であった。

「引取り人ありやなしや、とにかく出かけて見ん、もしなくばここに引き取らん。」というもので、彼は純粋な立場からこうした行為に及んだのであろう。当時は前記したように、国体をあやうくする危険思想という認識であったから、そうした主義者をかばうということは、主義者とみなされる危険があったわけで、迫害を受けてもしかたのないのである。したがって蘆花という人物の勇気と行動力には脱帽した。

 彼はこの問題への執着はこれだけではなかった。蘆花が旧制第一高等学校で「謀反論」について講演したのは、幸徳等十二名が処刑を執行されて僅かに八日後のことである。彼は講演の中で、「大逆罪の企てに万不同意であると同時に、その企ての失敗を喜ぶと同時に、彼等十二名も殺したくはなかった。生かしておきたかった。彼乱臣賊子の名を受けてもただの賊ではない。志士である。」また「帽子は上にいるつもりで、あまり頭を押しつけてはいけぬ。我等の政府は重いか軽いかわからぬが、幸徳君らの頭にひどく重く感ぜられて、とうとう彼らは無政府主義者になってしもうた。無政府主義者が何が恐い、それほど無政府主義者が恐いなら、事のいまだ大ならぬ内に、総理大臣なり内務大臣なり自ら幸徳と会見して膝詰の懇談をすればいいではないか。」と政府を糾弾しているから、幸徳同様に無政府主義思想に共鳴しているのかというと、そうでもないようで、「僕は幸徳君らと多少立場を異にする。」という。

 中野好夫は、蘆花は社会主義者だったと言っている。だが私が不思議に思うのは次の談話があるからである。「僕は天皇陛下が大好きである。天皇陛下は質実剛健、実に日本男子の標本たる御方である。」と講演で述べていて、彼の実像がなかなかつかめない。この講演は明らかに現政府を糾弾する内容であるから、無事にすむ話ではかった。当然何らかの処置があると覚悟せねばならぬであろう。

 間もなく蘆花に講演の機会を与えた旧制第一高等学校の校長、新渡戸稲造と弁論部長の二名が謹慎処分を受けた。しかし不思議なことに講演当事者の徳富蘆花には何の取調べもなかったのである。この処置にも疑問が残る。
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
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