啄木と三人の女性        井上 信興
石 川 節 子 (17)
 啄木が現在の名声を獲得したのは、彼の目指した小説ではなかった。彼は金にならない歌を軽視していたが、一応これまで作った歌をノートに書き溜めてはいた。時期が来たら歌集を出したいと考えていたに違いない。しかし当分その見込みはないものと思っていただろう。ところがその機会が思わぬところから来たのである。

 「朝日新聞社」に入社して一年が過ぎた頃であった。日記には渋川部長が「先月歌壇に出した歌を大層褒めてくれた。そして出来るだけの便宜を与えるから、自己発展をやる手段を考えて来てくれと言った。」とあるが、渋川部長が何を期待してそのようなことを言ったのか私にはよく解らないが、啄木は迷うことなく、歌集の出版を計画した。かねてから書き溜めていたノートから二百五十五首を選出して「仕事の後」という表題を付けた。それから約半年の間、歌数を増減して四百首ほどになった。「春陽堂」に交渉して十五円を要求したが断られたので、若山牧水主催の「創作」を出している「東雲堂」に出版を持ち込んだ結果成功して二十円で買取ってくれた。「東雲堂」の主催者はまだ十九歳の若さだったが、啄木の歌に関心を持っていたので引き受けてくれたのであろう。凝り性の啄木は出版が決まってから、歌数の追加、歌の形式、表題など大幅の変更をしている。

 東海の歌を巻頭に据え、ここに大森浜の歌を結集しようとしたが、これまでに作ったのは五首しかなかったので、彼は急遽四首作歌し「東海の歌」を加えて十首とし、表題をそれにちなんで「一握の砂」に変更した。この歌集は啄木の新しい短歌観から明星調を捨て、地についた独自の短歌観による歌に転向していたから、前作から遺したのは九十三首で他は破棄し、明治四十三年に作歌された歌を中心にしている。
 その頃節子は大学病院で男子を出産した。啄木は上司の佐藤真一から無断で名をとって「真一」と名付けた。しかしこの子は未熟であったのだろう。二十四日間生きただけで死亡した。啄木はこの短命だった子のために歌八首をたむけた八首の中から三首を抜いてみた。

歌集「一握の砂」の
表紙デザインの画家
名取春仙
筆者提供
・夜おそく  勤め先よりかへり来て 今死にしてふ児を
 抱けるかな

・おそ秋の 空気を三尺四方ばかり吸ひて わが児の
 死にゆきしかな

・かなしくも 夜明くるまでは残りいぬ 息きれしし
 児の肌のぬくもり

 この挽歌はすでに出版社に原稿を送った後に作歌して最後に加えたのである。したがって最終的歌数は五百五十一首となった。歌集「一握の砂」は。表紙画を画家の名取春仙が描き、渋川部長がきわめて適切な序文を載せた。そして郁雨宮崎大四郎と花明金田一京助の両氏に献辞しているが、この歌集「一握の砂」の場合は、誰が見ても適切な献辞だと思うだろう。この両氏こそ啄木を終始支えた友人でもあり、恩人でもあるからである。

 この歌集は出版当時売れたという本ではなかった。しかし大衆の力によって次第に彼の歌が受け入れられるようになり、今日の名声を獲得するにいたった。その原因を私は、渋川部長が言う「俺等聞及んだ昔から今までの歌に、こんな事を素直に、ずばりと、大胆に率直に詠んだ歌といふものは一向に之れ無い。」つまり従来の堅苦しい歌の殻を破って何でも歌える自由な歌を確立したということであろう。これはやはり啄木の功績と言っていい。大衆が彼の歌によってこれなら私にでも出来るといった感じを持ったと思うので、短歌の作家がかなり増加したのではないか、と私は考えている。

 この頃、啄木は社会主義に接近していた。売れない小説にいくら努力してみても、生活できるわけはない。そうした生活環境にいた彼は「まともに努力しても家族さえ養うことが出来ぬではないか」といった不満を常に持っていたが、その不満を「現在の夫婦制度、すべての社会制度は間違いだらけだ。予はなぜ親や妻や子のために束縛されねばならぬか、親や妻や子はなぜ予の犠牲とならねばならぬか、」と「ローマ字日記」で述べているが、周到な生活設計を持たぬまま、身勝手な行動をしているから、そうした不満が出るのであって、まともな生活者ならばまず定収入を確保してから事に当るだろう。無収入のまま結婚したり、小説だけ書いていればいい訳ではない。
「東京朝日新聞社」
筆者提供
売れて初めて収入が入るのだから、社会制度が悪いなどと言う前に、まず自身の生活態度を改めるのが先決であろう。また「現在の夫婦制度が間違っている」ならば結婚しなければいいのであって、こうした所に啄木の生活に対する身勝手とか甘さがあるのである。彼がこのような不満から社会主義に傾斜して行ったのは当然の成り行きであっただろう。

 丁度この時期に発生したのが世を侵害させた「大逆事件」であった。この事件の概略を少々述べてみよう。この事件は、信州明科の製材所の職工宮下太吉が爆弾を製造し、天皇の暗殺を計画したが事前に発覚して逮捕された。その事件を契機として、明治四十三年五月二十三日から官憲は左翼主義者の検挙を開始した。このときの宮下太吉の自白調書はきわめて丁寧な言葉遣いで、かつ詳細にして無抵抗に経緯を述べているのに私は一驚した。左翼主義者などという者は、抵抗してこう素直に告白するものとは思って居なかったからである。調書の内容は後述するとして、啄木はこの事件に直ちに反応して、「僕は長い間自分を社会主義者と呼ぶことを躊躇していたが、今ではもう躊躇しない。」と瀬川深あての書簡で述べているが彼にとっては当然だった。金田一が心配していたが、彼は社会主義者としてこの世を去っていったのである。
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
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