啄木と三人の女性        井上 信興
 石 川 節 子 (16)
啄木の母かつは、節子との結婚には反対であったから、この二人が一緒に居てうまくゆくはずはなかった。宮崎郁雨宛の書簡に「私は啄木の母ですけれども、実は大嫌いです。ほんにきかぬ気の意地の悪いばあさんですから、」と書いているが、こうした二人が毎日顔を合わせているのでは節子にとっては大変な苦痛であったと思う。啄木と共に暮らしたのはごく僅かの間であった。それに節子は東京を嫌っていた。妹たちへの手紙にも「盛岡からこなければよかったと思うよ、東京はまったくいやだ」と書いている。この二人の確執は日増しに先鋭となっていったが、そうした頃、郁雨が節子の妹次女のふき子と結婚が決まった。節子は妹とも当分会えなくなるからこの機会に、結婚準備など手伝うため盛岡へ帰りたいと啄木へ伝えたが許されなかった。十月二日朝、節子は京子を連れて、遂に家出を決行したのである。後には置手紙が残されていた。「私ゆえに親孝行のあなたをお母さんにそむかすのは悲しい。私は愛を犠牲にして身を退くから、どうかお母さんへの孝養をまっとうしてください。」と書かれていた。

啄木と金田一京助
筆者提供
これまで母と二人の生活に耐えてきた節子だったが、不満も言わずに啄木に従ってきた。その節子が家出するなど、啄木は全く思ってもみなかっただろう。彼の考えは甘かったのである。それだけに、そのうろたえ様は尋常ではなかった。彼はただちに金田一宅へ支援を求めるために飛んでいった。啄木は次のように金田一に話した。「戻ってくれなければ私は生きておれない。頼るのはあなた一人です。どうか戻るように手紙を出してください。」と懇願している。「私が可愛そうだ、意気地なく泣いているように書いてもよいし、私を馬鹿だと書いてもよい、私を何と書いてもいい。」さすがの啄木もなりふりかまわぬ、無条件降伏といった有様に、金田一は即座に啄木の求めに応じ、「私は長い長い手紙を、仕舞には自分の妻に逃げられたように、ぼろぼろ涙を落としながら書いて出した。これなら帰らずに居れまいと思う様な名文を書いたつもりだった。」啄木はまだ不安だったのだろう、盛岡高等小学校の恩師新渡戸仙岳にも書簡を送り、くどくどと家出の経緯を述べた後に、「一日も早く帰ってくるよう御命じ下されたく伏して願い上げ奉り候」とある。

節子にしてみれば啄木がこれほどあわてるとは思っていなかっただろう。これは彼や母にかなりのショックを与えたことは間違いないから、いい反省の機会になったと思う。このケースに私は啄木の弱点を見るのである。これは言わば家庭の問題であるから、普通の考えからすれば、本人が妻と会って解決すべき問題だと思うが、彼は他人にその解決を懇願しているのである。自己の恥を他人にさらけ出すことはない。
節子はこれで離縁になってもいいと思っていただろう。自分が居なくなれば困るのは意地の悪い母かつに家事のすべてがのしかかってくるのである。それに耐えられる老婆ではないことを節子は十分認識していたから、節子の有難味がわかるはずだ、帰宅してもこれまでの態度とは違うはずだ、と思って居たのではなかろうか。彼女は二十四日ぶりに東京へ帰ってきた。啄木は妻の留守中「節子が家出したのはお母さんのせいだ」といって責めたので、節子が帰宅してからは、「お母さんはもう閉口して弱り切っていますから、なにも小言などは言いません。」と妹のふき子への手紙に書いている。流石の姑も節子の家出には勝てなかったようである。

これで節子の家出事件もけりがついたから、啄木は安心して仕事に励むのならわかるが、勤務に少しなれてくると、これまで同様に悪い癖が出てきた。まだ入社してひと月半ほどしかならない四月十七日には「今日こそ必ず書こうと思って会社を休んだ。」と日記に書いている。また翌日には、「十一時まても床の中でモゾクサしていたが、社に行こうか、行くまいか」などと迷っている。それからしばらくして、「そうだあと一週間くらい社を休むことにして大いに書こう。
「佐藤北江」編集長
筆者提供
」「社を休んでいる苦痛もなれてしまって、さほどでない。」こうした勤勉さを欠く啄木でも解雇されなかったのは、ひとえに佐藤編集長の人柄によるもので、編集の上田芳一郎の佐藤評は興味深い。「佐藤君の性質は一体に真面目嫌いの方であった。佐藤君には清濁併せ呑むという度量はあったけれども、几帳面なものはあまり喜ばなかった。また佐藤君は如何なる場合といえども威容を正すというよりも先ず破顔してこれを迎えるという風であった。」この性格を見れば、啄木でも受け入れられたのがわかる気がするのである。

勤務態度のはなはだ悪い啄木だったが、その文才については認められていたようで、啄木にとって予想外の仕事が舞い込んできた。社会部長の渋川玄耳は、これまで自分が考えていた短歌の殻を破った啄木の歌に注目したようで、「昔から今までの歌に、こんなことを素直に、ずばりと、大胆に率直に詠んだ歌というのは一向にない。」これは歌集「一握の砂」の序文に書かれた渋川の感想である。そして「朝日歌壇」の選者に啄木を抜擢したのである。地方新聞ならともかく、東京の一流新聞であれば普通全国的に名の通った歌人を選者に迎えると思うが、一校正係の有名でもない啄木を選者に推すなどといったことは普通考えられない。社内には多少の反対があったようだが、渋川部長の決断で決定した。投稿歌が不足する場合は選者の歌で埋めることが条件であった。明治四十三年九月十日から翌年の二月二十八日まで八十二回続き、投稿者数は百八十三名であった。この仕事は啄木にとってはなはだ有益なものとなった。ほとんど一部の人には知られていても、全国的には無名であったが、朝日の選者で一挙に全国に知られたのだ。
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
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