啄木と三人の女性        井上 信興
 石 川 節 子 (14)
 なにしろ一時に大量の歌を作るのであるから、全てがいい歌というわけではない。玉石混交といったことにもなるが、しかし歌集「一握の砂」の巻頭を飾り、世の人々によく知られている一首。

  東海の小島の磯の白砂に
  われ泣きぬれて
  蟹とたはむる

 この歌もこの日作られた中の一首である。このとき作られた他の大量の歌は啄木の短歌観の変更によって歌集に採用されることもなく破棄された。しかし歌などいくら作ったところで金にはならない。小説が売れないことには生活が維持できないのである。その頃の日記に、「ああ、死のうか、田舎に隠れようか、はたまたモット苦闘を続けようか、何時になったら自分は、心安くその日一日を送ることが出来るであろう。作物と飢餓、その二つの一つ、誰か知らぬまに殺してくれぬであろうか、寝ている間に。」

  大木の枝ことごとくきりすてし
  後の姿の
  さびしきかなや

 この歌が辞世の歌にいいなどといって、小説に専念してきた彼も評価してもらえず、前途に対する自信を失い、かなり危険な状況になっていた。その頃のことだった。「電車が一台、勢いよく坂を下ってきた。ハット自分はその前に飛び込みたくなった。しかし考えた。自分の歌を書いた扇子を持っている。死ぬと、きっとこれは自分だということが知れるだろう。かくて予は死ななかった。」と日記にある。

啄木と金田一京助
筆者提供
 啄木の状態に危機感を感じた金田一は「これはいけない、どうにかしてやらねば」と思うと、今日受け取ってきた八月分の俸給で、啄木の未払い分の宿料を支払い、自分の分は十円出して、後は少し待ってくれるように女中に伝えた。しかし宿の経営者は聞き入れなかったのである。これまで金田一は月々きちんと支払ってきたから、当然了承してもらえると思っていたが、それが入れられなかったので気分を害した彼は、直ちに古書店主を呼び、文学関係の書籍を全部売り払った。彼は真面目な読書家であり、蔵書も大量で荷車二台分あったという。それで四十円の金を作った。宿に支払いを済ますと、この下宿を出ることに決め、適当な下宿を物色し、幸いそう遠くない森川町に蓋平館別荘というやや高級な下宿がみつかった。

 その日啄木は外出していてなかなか帰ってこなかった。金田一は翌朝啄木の部屋へ行き、「定本石川啄木」で次のように述べている。「石川さん、さあ引越しだ、引越しだ、と言うとむっくり起き上がった石川君は、何と思ったのか、『僕も連れてって、』と手を揉んで拝むまねをした。」啄木にしてみれば、金田一一人で引っ越すのだと思ったのであろう。置いて行かれたら大変だから啄木は少々慌てた。だが金田一は無論啄木と一緒のつもりである 。文学書の全くなくなっていることを知った啄木は、自分で下宿代が払えなかった為だとすぐに気が付いた。それを察した金田一は、「柄にもない文学かぶれを清算してこれから一直線にアイヌ語に進むの、私はこれで清々した。」と啄木を傷つけないように語っている配慮がみられる。新しい門出を祝して二人でビールを飲んだが、金田一は「この時のビールほど様々な味をもつビールを飲んだことがない」と述べているから、やはり大切にしていた文学書を全て失った寂しさがそう言わせのだと思う。蓋平館へ移ると、翌朝すぐに、金田一は帳場の主人に、「連れの石川君という人は、天才を謳われた人ですが、有り余る才能を抱いて、不幸にも今失職しているのです。私が連れてきた以上私が責任を持つから、どうかきつくあたらないで、少し気長に待ってください。」このように啄木のために先手を打ったのである。金田一にしてみれば、啄木は貧乏神と一緒に生活しているようなものだが、彼はあくまで心の優しい人物だと言えるだろう。

吉井勇
筆者提供
 その頃、吉井勇と北原白秋の二人とよく交際していたが、吉井は伯爵家の長男として明治十九年に生まれているから啄木とは同年である。彼は「新詩社」の合評会で啄木と顔を合わせたが、その時の印象を「啄木の追憶」という文章で次のように述べている。「一人の溌剌たる才気をその面に現した少年が、黒い紋付の羽織に袴をはいて、肩を聳やかして座っていたが、照会されて啄木であることを知ってその年少にして名を成しているのに驚いたのだった。」と言う。一方北原白秋は、九州の柳川で手広く海産物問屋と酒造業を営む資産家の子息で、明治十八年生まれであるから、戸籍上は啄木の一年上ということになるが、啄木は、十八年生まれだという説もあるから、まあ一緒の若者だと考えてもいい。啄木と白秋には不思議なほどの文学的共通点がある。明治三十四年、中学時代に回覧雑誌を出したのは同じ年であった。翌年啄木は「岩手日報」に、白秋は「福岡日日新聞」に、共に地方新聞に短歌を発表し、また啄木は「明星」に、白秋は「文庫」にそれぞれ中央の雑誌に短歌一首が入選したのも同時であった。つまりこの二人が歌壇へ登場してきたのは同時なのである。その上興味深いのは短歌から詩へ転換したのも同じ時期だったことである。明治三十六年ヨネノグチの詩集「東海より」を読んでから、啄木は詩に転換したが、白秋は彼の歌に対して「文庫」の選者の批評を不服として短歌から詩に転換した、共に明治三十六年のことであった。また後年啄木は国民的歌人という冠省を獲得し、白秋は国民的詩人といわれ、共に国民的という冠省を獲得している。この一連の経過をみればこの二人は文学的には全く同一人物といってもいいほどだ。
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井上信興先生の
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塚本 宏
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