啄木と三人の女性        井上 信興
 石 川 節 子 (13)
 啄木は何時までも与謝野宅に厄介になっては居られないので、先輩で親しい金田一京助に相談しようと思い、彼の下宿を訪問した。当時本郷菊坂町の「赤心館」という下宿に居たが、二階に空いている部屋があるというので、金田一と一緒なら心強いし、啄木は早速移ることにした。
啄木と金田一京助
筆者提供
金田一は当時東大を出て、海城中学の教師として勤務する傍ら、アイヌ語の研究も続けていたが、一方文学にも関心を持ち、「明星」の終刊まで社友であった。金田一は何も持たない啄木のために、二階の六畳間へ机と椅子を用意してくれた。啄木は日記に、「金田一という人は、世界に唯一の人である。かくも優しい情を持った人、かくも清らかな情を持った人、かくもなつかしい人、決して世に二人とあるべきではない。もし予が女であったら、きっとこの人を恋したであろう。」以後の同居生活で啄木の心情は偽りでないことがわかる。

 彼はこれで小説に没頭できる環境が整った。啄木はまだローマン主義にそまっていたから、なかなか自然主義への転換は容易ではなかったようだ。「自分の頭はまだまだ実際を写すには余りに空想に張っている。夏目の『虞美人草』なら一ヶ月で書けるが、西鶴の文を言文一致で行く筆はなかなか無い。」と日記に書いているが、まだ小説の実績を持たない彼が、夏目の仕事を批判する資格はない。無名の文人が作品を世に出すことは大変なのである。選者の判断があるからである。啄木は何回か出版社に小説を送って居るが、ほとんどは採用されていない。

 その頃郁雨から至急と書かれた手紙が届いた。はやる気持ちを抑えて開封すると、娘の京子が発熱して昏睡状態だとあり、病名はジフテリヤだという。啄木のショックは大きかったと思うが、それよりも節子の心痛はなお大変なものだっただろう。それにもまして、郁雨は家族を預かっている関係上、万一のことを考えると心の凍る思いだったに違いない。その時のことを後に「函館の砂」で述べている。「京ちゃんがジフテリヤで重態に陥入った時は本当に当惑した。夫の留守中瀕死の愛児を見守る節子さんの愛惜を偲び、家族を預かる自分の責任を思って共々に夜を徹して看病した日もあった。」とある。

 三日後に郁雨から電報が入った。啄木の胸はさわいだ、「ああ京は遂に死んだか」おそるおそる開いてみると、「ケイカヨシ、イサイアトヨリ」とあり、啄木はほっとして、胸を撫で下ろし、涙が頬をつたって流れたことだろう。この知らせで元気をとりもどした彼は、執筆にも拍車がかかり、小説「病院の窓」九十一枚を脱稿した。早速金田一に相談すると、彼は雑誌社に頼んでくれたのはいいが、不採用になって原稿は一週間後にはそのまま返却された。啄木はその夜日記に自嘲をこめて、「『病院の窓』が帰ってきた無事に」と書いている。啄木は彼が考えていたほど、世の中はそう甘くないことを身をもって感じたことだろう。

森鴎外
筆者提供
 こうなっては森鴎外という大家のつてを頼るしかないと考え、鴎外宅を訪問したが留守なので、やもえず原稿を置いて帰った。その日の日記は悲痛である。その帰り道「暗い道を歩いていて悲しくなった。久し振りで歩いたので、フラフラする。目が引っ込むようだ。俺はこの位真面目に書いていて、それで煙草代もない。原稿用紙も尽きた。下宿料は無論払えぬ。」彼は自己の文才を過信しているようなきらいがあり、小説を書いて生活するつもりでいるようだが、一般の者からすれば、まずなんらかの職につき収入の道を確保した上で、その余暇を小説に当てるのが常識だと思う。小説が認められて、それだけで生活できる見込みが立った場合は職をやめてもいいが、啄木は実績のないのに職に就くことなど全く考えずに売れない小説を書いている。「俺は真面目書いている」とあるが、別の話なのだ。吉報を待ちかねていた鴎外からの葉書が届いた。春陽堂が「病院の窓」を買い取ってくれるという。だが原稿料は雑誌掲載の後ということで当座の収入にはならないことがわかった。啄木は少々がっかりしたと思うが、春陽堂としては、この原稿を雑誌に掲載するつもりはなかった。つまり作品の評価が低いと判断したからである。だが雑誌社は鴎外からの依頼であるから無下に断るわけにもゆかず、雑誌に掲載しなかったものの、鴎外の顔を立てたのであろう、原稿料の二十二円七十五銭を支払ったのは半年以上も後になってのことだった。

 その間、下宿からは再三宿料の催促をされていたが、収入のない彼に支払えるわけはない。金田一は見かねて自分の衣服を質に入れて得た十二円を貸してくれた。金田一という人は以後も、啄木のために多大の犠牲を払っているのである。評価の高い小説を書けない彼は、その鬱憤を歌を作ることによって晴らしていたのである。したがって啄木は、歌を第二歌集の題名にもなった「悲しき玩具」程度にしか見ていなかったのだ。そうした作品によって彼は歌人として不滅の名声を残したのであるから、なんとも皮肉な話ではある。 それは上京して二ヶ月が過ぎた六月二十三日のことだった。日記に「頭がすっかり歌になっている。何を見ても、何を聞いても皆歌だ。」といった状態であった。二十三日の夜中から二十六日の夜中までの間に、二百三十三首もの歌を作っている。ある必要から私は一首作るのにどの位の時間を要したのかを計算してみたことがある。それによると、一首六分前後という結果が出た。最初は歌材も豊富だと思うが、歌数が進んで行くにつれて当然歌材は枯渇してくるし、披露も加わることを考えれば、最初は二三分で作らないと、到底平均して一首六分程度には収まらないのである。こうした点を考慮すれば、啄木の作歌能力というのは、尋常のものでない事が納得されるのである。こうした歌人は他に例を見ない。
 
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
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