啄木と三人の女性        井上 信興
 石 川 節 子 (12)
 釧路を後にした坂田川丸は翌日二時過ぎに宮古へ寄港した。夜九時宮古を出港した船は北上を続け、四月七日午後九時に函館に入港した。この街を出てから約一年で再び帰ってきたのである。啄木は「あわれ大火後初めての函館。なつかしいなつかしい函館。山の上の町に灯火の少ないのはまだ家の建ち揃わぬためであろう。」と日記に書いている。函館にはいい印象だけが残っていたから、「なつかしいなつかしい」と書いているのであろう。

 釧路を脱出したものの、その後については何ひとつ決まっていなかった。その夜は親しくしていた白鯨、岩崎正宅に泊めてもらった。翌日、岩崎は勤務先の郵便局を仮病を使って啄木のために休んでくれた。
「宮崎郁雨」函館の実家
筆者提供
午後から岩崎と宮崎郁雨をさそって東川小学校に勤務する吉野白村を訪ねた。彼はその日当直だったので、久し振りに親交のあった四人が宿直室で飲み、楽しく談笑の時間を過ごした。翌日の日記に啄木はつぎのように書いている。「自分は初め東京行きを相談しようと思って函館へ来た。来て、そして言い出しかねていた。今朝それが却って郁雨君の口から持ち出されたので、異議のあろうはずはない。家族を函館へ置いて郁雨兄に頼み、二、三ヶ月の間、自分は独身のつもりで都門に創作的生活の基礎を築こうといふのだ。」啄木にしてみれば、二、三年は函館に腰を据えてある程度の資金を用意し、時のくるのを待つつもりでいたが、東京へ出て活躍したいという啄木の念願はかねてからわかっている郁雨であるから、「東京へ出るつもりなら、早いほうがいい。」といったのであろう。啄木はこんなに早く実現するとは考えてはいなかったが、そう決まると早速小樽に置いている家族を函館に連れ戻した。

 家族にしてみれば、啄木が釧路へ呼ぶようなことを言いながら実行せず、函館に帰ったので今度こそ一緒に住めるのかと思えば単身上京するという。母や節子の気持ちを彼は全く無視しているのである。彼の勝手な行動を常に見せられている節子にすれば、到底夫婦らしい生活は当分見込みがないものと、あきらめていたであろう。家族を預かった郁雨は、忠実に面倒を見てやっていた。

 四月二十四日、上京の日が来た。啄木は横浜行きの三河丸で発つことにし、汽車を避けて海路を選んだ。その理由を彼は「一握の砂」という文章の中で次のように述べている。「故郷を二度と帰って行けぬような騒ぎを起こして飛び出してからまだ一年しか経っていなかった。一木一草にも思い出ある土地を汽車の窓から見るだけでも、私には堪えられぬ事のように思われた。」と言うよりも私は、岩手県を通過する際、顔みしりの人に会うのが彼には苦痛だったのではないかと思う。

 夜九時、郁雨と白村の二人に見送られて三河丸に乗船した。また「一握の砂」から引くと、「陸上では出なかった涙が一時に溢れて、止めどもなく私の頬に流れた。」「ついついこんな事になってしまった。これだけの考えでもう頭が一杯であった。後には嘲笑の声を残し、友人には重い迷惑をかけ、親や妻子を寄食の境涯に落とし、こうしては出て見たものの、この先どうなる事か。」と、強気の啄木も内心先の見通しに自信がなかったのだ。次の記述でそれがわかる。「格別の素養もなく、おまけに長い間それに遠ざかっていた私に何が書けるだろう。一心になってやろうとは思っているが、それにした処で、約束の如く半年やそこらで家族を呼び寄せる様に成ろうとはどうしても考えられない。」このような不安を持っての上京であったが、とにかく努力してみるよりしかたがない。
 函館を出港した三河丸は翌朝七時に宮城県の萩の浜港に寄港した。北海道の四月は春といっても名ばかりだが、此処まで来ると、花が咲き乱れて春も盛りである。ここをでると明日はいよいよ横浜である。二昼夜半で横浜に到着したのは午後六時であった。横浜正金銀行前の長野屋に一泊し、かねてから上京する時は「明星」の関係で与謝野鉄幹宅へ来るように言われていたので啄木は当分同氏宅に泊めてもらうことにした。

 その日の日記に「お馴染の四畳半の書斎は、机も本箱も火鉢も座布団も、二年前と変わりはなかった。主人与謝野氏のよほど年老いていること、本箱に格別新しい本がない、生活に余裕のない為だと気付く。一つ少なからず驚かされたのは、電燈のついていることだ。」この記事から、東京では明治四十一年頃、家庭に電灯が普及したことがわかる。地方ではまだランプが一般的だったろうから、啄木が驚いたのも無理はない。
明星
筆者提供
「明星」は自然主義の台頭によって自然に読者も減少していったのだろう。主催者の鉄幹は。「どうしても月三十円以上の損になります。外の人ならもうとっくに止めているんですがね」と嘆いていたという 。この年遂に百号を最後に廃刊したのである。啄木は時の流れに従い、ローマン主義を捨て自然主義に移行していった。

 森欧外は小説ばかりではなく、詩歌にも造詣が深く、各派の親睦を目的に、自宅、「観潮楼」に主な歌人を集めて歌会を開いた。啄木にも案内状がきた。この会の模様を啄木は興味深く述べているので引いてみよう。「客は佐々木信綱、伊藤左千夫、平野万里、吉井勇、北原白秋、与謝野鉄幹、石川啄木、と主人の森鴎外の計八名である。この歌会を鴎外の自宅で開催し「観潮楼歌会」といった。平野君以外は皆初めての人ばかり、鴎外氏は色の黒い立派な体格の、髯の美しい軍医総監とうなづかれる人であった。一人五首の運座。ご馳走は立派な洋食。採点の結果、鴎外十五点、万里十四点、僕と鉄幹そして吉井が各十二点白秋七点、信綱五点、左千夫四点、歌の先生で大学の講師なる信綱君の五点は実際気の毒であった。最高点の鴎外は「ご馳走のキキメが現れたねと哄笑せられた」という。
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
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