啄木と三人の女性        井上 信興
 石 川 節 子 (11)
 この夜は佐藤宅に宿泊予定なので、浦見町まで十町の道を歩いて行った。北海の冷気は容赦なく啄木のきゃしゃな体に凍みとうった。釧路での最初の夜が明け、その日の日記に、「起きてみると、夜具の襟が息で真っ白に氷って、寒暖計は華氏で零下十二度を示している。顔を洗う時シャボン箱に手がくっついた。日陰主筆が来た、共に出社する。」社屋はレンガ造りの新築で美しい。翌日、須崎町一丁目の関という下宿へ移った。二階の八畳一間である。何しろ家財道具は何もないのだから、火鉢一つの部屋は広すぎて寒い。
「白石義郎」釧路新聞社長
筆者提供


 夜になると社長の招待により、社員一同出席し、釧路第一の料亭「喜望楼」で宴会が持たれた。釧路は当時人口一万三千ほどの小さな港町であったが、料亭は数軒あり芸者も四十人ほどはいたという。なかなか活気のある町だった。宴会には芸者小新と小玉の二人が呼ばれた。啄木は函館小樽札幌といった大きな都市でさえ経験しなかった芸者をはべらせての宴会は初めてであった。社の今後の運営方針が協議され当面三月まではこのままで、機械が到着したら、最近出来た「北東新報」と戦いつつ漸次拡張するというのがこの夜の決定であった。啄木は三面主任ということだったが、他に有能な記者もいないことから、実質的には編集長格の仕事をしていた。

 例によって入社草々「釧路詩壇」を設けて一般から詩歌を募集し、応募者の少ないときは自身の歌を匿名で掲載し、また「雲間寸感」には政治評論なども書いた。二月に入って職場にも慣れてくると「紅筆便り」などという花柳界の艶っぽい記事まで書くというようなことで、従来の紙面とは比較にならないほど活気に満ちたものになったから、「北東新報」などはたちまち圧倒されたのである。こうした状況を見て、社長が喜ばぬはずはない。早速社長に呼ばれ、「昨日あたりから新聞の体裁が別になった。」と喜ばれ、銀側の時計と五円をもらった。啄木が腕時計を持ったのはこれが初めてである。

 社長や理事も「是非永く釧路に居てくれよと言ふ。三月になったら家族を呼び寄せるようにして、社で何処か家を借りてくれると言ふ。自分も来て見たら案外釧路が気持がいいから、さうしようと思ふ。不取敢せつ子へその事を言送った。」と日記に書き、家族を置きっぱなしにして自分勝手な振舞いをする啄木も最初は今度こそ当分釧路に落ち着くつもりでいたのは確かである。だがしかし、芸者遊びの味を覚えた彼は、

  火をしたふ虫のごとくに
  ともしびの明るき家に
  かよひ慣れにき

 と歌に詠んでいるように毎晩のように料亭に入り浸っていたのである。こうした生活が彼に耐えられるはずはないのである。近いうちに破綻は必ずくるであろう。とにかく後先を全く考えていないのだ。彼が釧路で残した借金は二ヵ月半の間に二百円にもなっていた。家族を呼び寄せるような状況ではすでになくなっていたのだ。この借金を清算する見込みはまったくない。このような生活を続けていたのでは負債は増加するばかりで身動き出来ぬ状況になることは彼とて承知していたはずだ。ならばこの借金地獄から抜け出すタイミングを模索することになるのが啄木の常套手段である。啄木がたった七十六日という短期間で釧路を出た原因について研究者は色々と理由をあげているが負債は案外軽視されていて「東京病」が出たとか、日景主筆との間の不満であるとか、「梅川問題」などが原因だと言うが、こうした問題が勤務先を去るほどのことだとは思えない。辞職するということは収入を断つことを意味するのだから、それほどの犠牲を払う必要のある問題だとは考えられない。彼が釧路脱出を決意したのは三月末であったが、遊びに金を使い果たしていたので、月末には五厘銅貨二枚という有様であった。二三交渉の結果十五円ほどの金が出来た。

 密かに釧路からの脱出を図る以外もはや釧路で生活は出来ない。四月二日、彼はまず函館に行くことを決め、船便を調べた。坂田川丸が今日の午後六時出帆するという。この船は宮古、函館を経由して新潟に行く、三百五十トンほどの小型の貨客船である。船賃は三円五十銭で思ったよりかなり安かった。妻節子に「今夜船にて釧路を発つ」と打電した。
「釧路の下宿」
筆者提供
下宿には「ちょっと函館まで行って来る」と言い、社には全く報せるつもりはなかったが、送りにきていた同僚から、「主筆にだけは報せたほうがいい」と言われ、「家族に関する用」とだけハガキに書き送った。下宿や勤務先にはちょっと函館まで行ってくるように言いながら、再び釧路の土を踏む気は全くなかったのである。したがって夜逃げ同然で釧路を発つことしか考えてはいなかった。こうした去り方をみても、その原因が借金であることは明白なのである。他の原因ならば、なにもこそこそ逃げるような態度をとる必要はない。堂々と去ることが出来るのだ。

 この船は積荷の関係でなかなか出航できず、啄木は船で二泊し、四月の五日になってやっと出航することが出来た。彼は日記に、「汚い船だ、二等室は畳を敷いて、半円形に腰掛がある。窓が左右二つ、左舷の窓の下の高い所に陣を取る。唯一人だ。」朝の七時半抜錨し一路宮古を目指した。また次のようにものべている。「船がゆれて気持ちが悪い。食事だけは普通にしたけど、寝ていた。窓から陸を見る。何とも言えぬ異様な感情が胸に湧く。寒い。」何しろ普通に釧路を出てきたのではないから、彼の胸中は複雑なものがあったと思う。こうして七十六日をすごした釧路の町も彼の視界から消えた。後ろを振り返ると、雄阿寒、雌阿寒の両山が朝日に映えた雪の姿だけが心に残り、再び釧路へ帰ることはないのだ。
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
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