啄木と三人の女性        井上 信興
 石 川 節 子 (10)
 「小樽日報」は山県勇三郎が社主で、道会議員の白石義郎が社長であった。他に「釧路新聞」の社長も兼務するというなかなかの人物である。この小樽は港町ではあるが、函館のようなロマンチックな雰囲気はないようで、

  かなしきは小樽の街よ
  歌ふことなき人人の
  声のあらさよ

 といった歌を残しているにすぎない。社はまだ木の香が残る新築の社屋であった。最初の編集会議に出席したが、社長、岩泉主筆以下五名の記者で、野口と啄木は二面を担当することがきまった。帰途啄木は野口雨情と一緒だったが、雨情は主筆と以前から交際があったようで、両者間に何かトラブルがあったのか、主筆の岩泉江東は前科三犯とう話が出て、こうした人物に従うことはできないとして、排除することを二人で決議した。しかしこの計画は何処からか漏れて主犯の雨情は即座に退職させられたが、不思議なことに、共犯の啄木にはなんの制裁もなかった。それどころか二面の主任に昇格し五円増俸したのである。啄木は記事の執筆に没頭していた。

小林寅吉事務長
筆者提供
 「朝より日の暮れるまで材料の来るにしたがって三五〇行位書くなり。」と日記に綴っているからかなり多忙だったことがわかる。だが少し仕事に慣れると、例の悪いくせが出てくるのである。会社に無断で露堂に会いたくなって札幌に出かけた。その日の内に帰ればまだよかったのだが、露堂の下宿に一泊したのである。翌日夕方帰社してみると、小林寅吉事務長が啄木の帰るのを待ち構えていた。小林は後に、中野家の婿に入り、衆議院議員に七回当選し、「蛮寅」の名で広く世間に知られ、晩年は仏門に入るといった特異の経歴を持つ人物である。啄木の姿を見ると、たちまち暴力に及び、羽織の紐はちぎれ、額に二つばかりこぶも出来たうえ、つきとばされたのである。啄木は女性並の虚弱な体格だったから、無抵抗で反撃などは出来なかっただろう。これが小林以上の体格だったら、反逆精神旺盛な彼だから逆な結果になっていたかもしれない。啄木はその夜ただちに澤田編集長を訪問して断然退社する意思を伝えた。澤田は書面をもって社長に事務長の暴力沙汰を報告したが、社長からは何の指示もなかった。啄木の行動が問題だと思ったからであろう。

  負けたるも我にてありき
  あらそひの因も我なりしと
  今は思へり

 後には一応反省はしている、しかしその時にはすでに年末も迫っていた。給料は前借分を引くと、手にできたのは十円六十銭でしかない。これで年を越すのである。一家の苦悩を日記から引くと、「夜となれり遂に大晦日の夜となれり。妻は唯一筋残れる帯を典じ一円五十銭を得来たれり。母と予の衣二、三点をもって三円を借りる。之を少しづつ分かちて掛取りを帰すなり。かくて十一時過ぎて漸く債鬼の足を絶つ。」啄木はともかく母や妻の心中はいかばかりのものであったろうか。結婚以来前借りと借金それに質屋通い、こうした貧困の生活の中で、節子は苦情も漏らさずよく耐えてきたと思う。彼女が結婚したとき持って来た品物など何一つ残っていなかったのだ。父親に反対されてまで啄木を選んだのだから、彼に従って行くよりほかに道はないのである。啄木というのは、一家の生活というものをどう考えているのか、とにかく身勝手な行動で生活を苦境に追い込んで、家族を不幸にしてきたのは確かである。このようなことだから、新年を迎えても楽しい年になるはずはない。

 「起きたのは七時頃だったろうか、門松も立てなければ、注連飾もしない。さっぱり正月らしくないが、お雑煮だけは家内一緒に食べた。正月らしくないから、正月らしい顔をした者もいない。二十三歳の正月を小樽の花園町畑十四番地の借家で、職を失うて、屠蘇一合買う余裕もないといふ、すこぶる正月らしくない有様で迎えようとは、そもそも如何なる唐変木の編んだ運命記に書かれてあったことやら。」などとふざけたことを元日の日記に綴っているが、すべては自身の身から出た錆なのである。編集長の田沢は、函館時代から啄木との関係もあり、彼の苦難を何とか解決すべく白石社長に相談していた。社長は啄木の才能を買ってもいたから、同系統の「釧路新聞」へ採用してやることにした。勝手な啄木ではあったが、白石社長と澤田の温情に救われたのである。澤田が動かなかったらこの話は出ないと思われるので、その後の啄木はどうなったかわからない。とにかく釧路行きがきまったので家族も安堵したことであろう。啄木が小樽を発ったのは一月十九日であった。

  子を負ひて
  雪の吹き入る停車場に
  われ見送りし妻の眉かな

当時の釧路駅夜景(反田十郎画)
筆者提供
 翌日社長と共に、始発で旭川を発った。間もなく朝日が昇り白一色の原野を赤々と照らした。当時の汽車は現在では想像できないほどの時間を要した。帯広に着いたのが三時半でここまで九時間もかかっている。釧路まではあと六時間はかかる。釧路に鉄道が着いたのは啄木達が行く前年のことであり、最果の町の住人たちもやっと交通機関を利用できるようになったのである。啄木は疲労と共に、漂泊の実感と悲しみを覚えていたことだろう。釧路に到着したのは厳冬の夜九時半であった。

  さいはての駅に降り立ち
  雪あかり
  さびしき町にあゆみいりにき

 まだ駅前などは、灯火も少なく、舎外の風景は想像した以上の淋しいものであった。この歌に啄木の実感がこもっている。冬は盛岡も寒いが、釧路の寒さはまた格別である。駅には社の佐藤国司理事が出迎えていた。
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
著書
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