啄木と三人の女性        井上 信興
1. 石 川 節 子 (1)
 彼女はいうまでもなく後年啄木の妻となった女性である。明治十九年十月十四日、岩手県南岩手郡上田村新小路十一番地に、父堀合忠操、母トキ、の長女として生を受けた。戸籍名はセツである。盛岡高等小学校に入学した時、一年上に啄木も在学していた。節子と啄木の両者が同じ学校にいたから顔を合わせることはあっただろう、
啄木
出典:ウィキペディア
啄木は頭がよく、そのうえ小柄ではあったが、美男子だといっていい容貌をそなえていたので、女性徒には注目されていたと思うが、節子はおとなしく、普通の子供でそう目立つという存在ではないから、啄木の目に止まるということはなかったと思われる。

 この二人のなれそめは、この頃からだという研究者もあるが、まだ子供の時代であり、私の調べた範囲では証明する文献はないから、この説は否定していいであろう。啄木が盛岡中学二三年で、節子がミッションスクールの私立盛岡女学校に入学して以後二人の恋愛が芽生えたというのが、一般的にいって妥当な考えで、それを証明する文献は数点ある。その一つは、節子の家に親戚の子供で山崎廉平が下宿していたが、啄木と彼は中学の同級生だったので、啄木も時々は遊びにいっていたようだ、そうしている内に節子と知り合ったのではないかという。この説には可能性がある。また、渋民の素封家金矢家の子女が通学するために、盛岡に別宅を持っていて、ここの娘のぶ子は女学校で節子と同級生であった。啄木は同村渋民出身のよしみでよく出入りしていたらしいが、そこで節子と知り合ったのではないか、と言う説も有力だと思う。

 当時の二人の状況は、啄木や節子の友人の談話や文章、あるいは啄木の書簡からその一端を知ることができる。小沢恒一の証言「田村という啄木の下宿していた家だったと思う。その上の二階に啄木が独りで住んでいた、新学期の抱負など愉快に語り合った時に、絶対秘密で誰にも口外してくれるなという条件のもとに打ち明けられたのが、この初恋の問題であった。」という。一方伊東圭一郎によると「啄木から節子さんとのことを打ち明けられたのは、瀬川深さんも小沢恒一も私も同じ頃だと思う。」と述べている。「絶対秘密だから誰にも口外してくれるな」と云いながら、結局皆に話しているのであるから、啄木もいい加減なものである。というのも彼には嬉しさが隠せなかったのであろう。また伊東は「啄木は門前まで送ってきて右側の垣根つづきの五六軒先を指差して、節子さんの家はあそこなんだよ、夕方に門の前に出ると、節子さんも出てきて、二人の視線がぴったり合うのだ、と言っていた。その頃の啄木はまことに楽しそうだった。」おそらく節子は窓辺で啄木の出てくるのを監視していたのであろう。

 また瀬川深によれば「ある日啄木の下宿に遊びにゆくと、啄木は得意満面で真っ赤な太いリボンで作った香水の匂いのプンプンする一枚の栞を大事そうに指に摘み上げて見せた。彼の留守中に節子さんが尋ねてきて、机の中へこっそり、手製の栞を隠していったのだという」また節子と女学校同級の小沢糸子によれば、「啄木さんと恋を語るようになってから、ぐっと物腰が柔らかくなり、色も白くなって肉づきもよくなり、見違えるほど美しくなっていました。」と述べている。この一連の証言を見る感じでは、節子のほうが啄木にたいして関心が深いような感じを受けるが、いずれにしても相思相愛であったに相違ない。啄木は文学にのめり込んだのと、恋愛を経験して、こうした楽しさを知ったばかりに、学校の授業は疎かになって、やがて成績が漸次低下していったのも当然の成り行きであった。

 一年のときは平均八十点で百三十一名中二十五番でかなりの上位であったが、二年では平均七十五点で百四十六名中四十六番に下がり、ここまではまあそう悪いという成績ではないが、三年では平均七十点、百三十五名中八十六番と急落している。少年時代神童と言われた啄木もこの成績ではただの人になりさがったのである。

   師も友も知らで責めにき
   謎に似る
   わが学業のおこたりの因

という歌を作っているが、こうした急激な成績の落下を師や友人に注意されたのであろう。だが啄木にすれば、もう学業に努力する気は全くなかったのである。彼は中学五年生のとき試験で二度もカンニングが発覚し、到底卒業できないものと考えて、落第という汚名をのがれ「家事上の都合により」を理由として退学願を提出して自ら中学を去ったのである。

啄木歌碑と岩手山
出典:いわての旅
 彼にとっては文学で身を立てる以外に生きる道は残されていなかった。そう決断するとその対応は迅速である。啄木が退学したのは、明治三十五年十月二十七日であるが、彼はその三日後の三十日には早くも故郷をはなれて盛岡で友人や恋人節子に会ってしばしの別れを惜しんだ。盛岡に一泊していよいよ上京の日がきた。出発の場面を彼はきわめて印象的に日記に綴っている。
 「停車場に至れば見送りの友人すでにあり。うす暗き掲燈の下人目をさけ語なくして柱により妹たか子の君の手をとりつつ車中の我を見つめたまう面影、ああ如何にあたたかきみ胸ぞ。たとえ吾を送るに千人の友ありとするも何れかよくこの恋の君の一目送の語なくしてかたる紅涙にしく者あらんや。」
 この別離の情景は映画の一シーンを見ているようにも思われる。節子が妹のたか子をつれてきたのは、当時節子の親は、彼女の態度から、恋をしていることを感じていたので、外出をする場合常に妹を監視役として連れてゆくことを義務づけていたのである。こうして啄木は恋人と懐かしい故郷の山河を後にして東京を目指した。
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井上信興先生の
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塚本 宏
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