啄木と三人の女性        井上 信興
 芸者 小奴 (3) 

 啄木は社を休むことが多くなり、事務長は仕事に支障があるので、上京中の白石社長に報告したのであろう。社長は「小樽日報」時代の啄木の身勝手な勤務状態を承知していたので、啄木へ電報を打った。「ビヨウキナオセヌカ、シライシ」という文面を見た彼は釧路を去る切掛けを探っていた時だったので、この電報を受け取って心がきまった。
石川 啄木
Wikipedia より

 断然釧路を去る時が来たのだ。小奴にも伝えた。彼女はせっかく親しくなった啄木と別れるのはつらかったに違いない。「去る人はいいが残る者はねえ」と言った。「何処に行っても必ず手紙をくれ」とも言った。啄木との縁を失いたくなかったのである。

 橘智恵子の場合もそうであったが、女性にとって啄木というのは魅力ある存在だったことは間違いない。

 啄木が釧路を三百四十九トンと言う小型の貨客船酒田川丸で発ったのは明治四十一年四月五日であったが、高額の借金はそのままで、勤務先に挨拶もせず、夜逃げ同然に釧路を去ったのである。無論最初から釧路に帰るつもりはなかった。二日後の七日午後九時十分なつかしい函館に入港した。一年間北海道をさまよっていたのだ。

 しかしこの経験は後に歌集「一握の砂」に数々の名歌を残し、特に智恵子と小奴を歌った三十首は彩りを添えているのであり、決して無駄な流浪ではなかったのだ。

 啄木にとってはつらい日々もあったと思うが、人生というのは最後になってみないと良かったか悪かったは解らないものだと思う。

 函館の友人宮崎郁雨は、啄木の「東京病」を察知し、上京に賛成してくれた。家族は当分郁雨が面倒をみてくれることになって、啄木は小樽に残している家族を連れ帰った。そして早くも二十四日夜九時に横浜行の船便三河丸で函館を発ったのである。家族が来たのは二十日であったから、たったの四日しか啄木とは一緒に暮らしてはいない。彼のきままな生活態度に翻弄され、愚痴も言わずに従っている妻節子の心中を思わずにはいられない。

 さて東京で啄木は小説に全力を投球していたが彼が考えているほど甘くはなかった。「二、三ヶ月で家族を呼び寄せる」など言っては出てきたものの、自分の生活さえ事欠く有様で、同居していた金田一京助氏の支援で何とか暮らしているようなことだった。したがって家族には当分上京できる可能性はない。

 この年もすでに十二月に入ったその一日に、まったく予期せぬことがあった。この日の啄木日記を引いてみよう。

 「夕方の六時半頃のことだ。女中が来て日本橋から使いが来たといふ。誰かと思って行ってみると、車夫が門口に立っている。誰からと聞くと、一寸外へ出てくれといふ。「釧路から来たものだと言ってくれ。」といふ女の声が聞こえた。ツイと出ると、驚いた、驚いた、実に驚いた。

 黒綾のコートを着た小奴が立っているではないか。ヤアと言ったきり、暫くは二の句をつげなかった。」啄木は全く予想もしていただけに驚いたことだろう。「ある客に連れられてきたという。小奴は予が立って以来、ウント暴れたという。」また啄木を忘れかねたのであろう。「福本という人に頼んで啄木の住所を調べてもらい葉書を出した。」とも言った。啄木は上京してから、彼女に葉書一枚出していなかったのだ。まあ啄木としては小説を書くのと、日々の生活に必要な金にゆとりがないから、小奴にまで手が回らなかったというのが実情であっただろう。

 「散歩しようと言って二人は出た。三丁目から上野まで、不忍池の畔を手を取り合って歩いた。ステーション前から電車、浅草に行って蕎麦屋に上がった。二本の銚子に予はスッカリ、釧路を去って以来初めての位、酔った。九時半そこを出て、再び手をとり合って十町ばかりも歩いた。別れる時キッスをした。」別れたときこれが最後だと啄木は思っていたと思うが、六日ほどたった二時頃、女中が入ってきて、「先夜の方がと言う」小奴だ、「彼女と夕方まで話す。それから小奴と二人、日本橋の宿へ電車で行って、すぐまた出た。須田町から本郷三丁目まで、手をとりあって歩いた。小奴は小声で唄を歌いながら予にもたれて歩く。九時共に寄宿、金田一君を呼んで三人でビールを抜き、ソバを喰った。十二時に返し、通りまで送った。」この記述から二人の楽しそうな情景が目に浮かぶ。

 この二人は翌日にも会っているのだ。啄木が宿を訪ねると、「小奴は寂しそうに火鉢の前に座っていた。共に銀座を散策した。奴は造花を買った。それからまた宿に帰って、すしを食ひながら悲しき身の上の相談、同行してきた逸見の妾になれと勧めた」。と言う。十一時、言いがたき哀愁を抱えて電車で帰った。」
梅川 操
筆者提供

 この日記の記事を読むと梅川操に逢ったときの啄木の対応と、小奴との場合とではまったく違っていることがわかる。したがって梅川が本当に啄木が愛したのは自分だと言ったとしても、通用しない話になる。

 また小奴には戦後「北海道新聞」に掲載された「啄木の思い出」といった文章がある。「酒の席などでもいつも静かにニコニコ笑顔で、ふざけたりなんかしない、酒もサカズキ五六杯で赤くなる方でしたから、女には好かれるタイプでしたね。」

 啄木が「朝日新聞社」入社した際「服装を整えるのに金がいるといってきたので、お祝いの意味で五十円送りました。」というが、啄木日記には二十円とあり、小奴はたぶん見栄で多く書いたのであろう。
渋民の歌碑 :やわらかに 柳あをめる 
北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに
人物は筆者 井上 信興 〈筆者提供〉

 最後に彼女を歌った八首のうちから二首を引いてこの項を終えたいと思う。

      ・よりそひて
         深夜の雪の中に立つ
            女の右手のあたたかさかな

      ・きしきしと寒さに踏めば板軋む
         かへり廊下の
            不意のくちづけ

 歌はみな女の肉体的感触を歌ったもので、橘智恵子の歌とは全く違うのだ。 
                             「完」
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
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