啄木と三人の女性        井上 信興
 芸者 小奴 (1) 

 啄木は「小樽日報」を退職し、澤田天峰が白石義郎社長へ啄木の今後について相談してくれ、その結果白石社長の兼務する「釧路新聞」への入社が決定した。これは澤田、白石両人の好意によることは言うまでもないが、啄木の技量、才能を認めていたからであろう。
「白石義郎」釧路新聞社長
筆者提供

 節子の章でも釧路へ行ったことは述べた。啄木は函館に上陸して以来、札幌、小樽と転々と流浪し、遂に最果ての釧路まで流れてきたのである。

 それは厳寒の明治四十一年一月二十一日であった。翌朝出社したが、社屋はレンガ造りの当時としてはシャレタ建物であったから、啄木としても好感が持てた。これなら落ち着いて仕事が出来ると思っていただろうが、例によってそれは最初のうちだけのことであった。

 出社して間もなく、社長の招待で釧路第一の料亭「喜望楼」で宴会が持たれた。宴席には小新と小玉の二人の芸者が同席した。釧路は当時人口一万三千人ほどの小さな町であったが、活気のある港町で、料亭も数件あり、芸者も四十人ほどいたという。函館や札幌のような大都市でさえ経験しなかった芸者というものに接したのは啄木にとって初めての経験であった。

 それから丁度一ヶ月して、視察隊歓迎会があって、八十名の出席者があり、「喜望楼」で宴会が持たれた。芸者の中に小奴も出ていたのである。啄木は日記に「市ちゃんと、かも寅の小奴はなかなかの大モテだった。」と書き、この時初めて小奴に会ったのである。また日記に「小奴が今朝佐藤君を訪ねて何か僕のことを言ったとかで、少し油をとられて大笑い。」という記事から、小奴は啄木に目をとめたことがわかる。

 その日の夕方啄木は「釧路実業新報」の創刊祝いに招かれて出席した。数人の芸者の中に小奴も出ていたのである。「小奴のカッポレは見事であった。」と特に書いているから彼女は啄木の印象に残ったのであろう。「小奴というのは、今まで見たうちで一番活発な気持ちのよい女だ」とも書いている。

 しかし新聞社仕事も多忙であった。「朝から晩まで『雲間寸簡』を初めとして三百行も書く、終日筆を放たずに、昼飯を食うのも忘れた。」という有様だったから、新聞も活気に満ちた紙面となり、ライバルの「北東新報」を圧倒した。この状況に社長は啄木の技量を認め、啄木には長く釧路にいてほしいと思っただろうが、しかし社長の考えは啄木に裏切られるのである。啄木はここで芸者衆にちやほやされ、芸者遊びを覚えたばかりに、毎日のように料亭に入り浸るようになった。

           火をしたふ蟲のごとくに
            ともしびの明るき家に
             かよひなれにき

 この歌がよく当時の状況を語っていると思う。彼の月給は二十五円であったから、こうした巷に出入りしていれば、やがて破綻を招くのは目にみえている。金がなくなれば、函館の友人宮崎郁雨に、色々理由をつけて送ってもらっているが、郁雨は疑いを抱かず、そのつど送金してやった。金が入るとすぐ友人と料亭に行くのである。こうした生活は身分不相応であって、堅実な生活者は自己の収入を考えて行動するから、啄木のように後先も考えずに芸者遊びにのめり込むようなことはしない。啄木の文才は高いことを認めるが、この有様を見ても生活者としていかに未熟な男であったかがわかる。

 さて小奴であるが。明治二十三年の生れであるから啄木より三歳の年下であった。本名は近江ジンという。九歳のとき十勝の国大津の坪家の養女となり、養父死去後は帯広の料亭に移って芸事を習った。その後に釧路の近江旅館の母のもとに移り、「小奴」となのって料亭「しゃも寅」の専属芸者となった。明治四十一年結婚したが大正十二年離婚して近江屋に戻り、近江の姓となって旅館業に専念したが、昭和二十九年旅館を廃業した。やがて釧路を出て北陸に移り。さらに上京して昭和四十年二月、東京都下多摩町の老人ホームでその一生を終えた。
小奴人形
釧路市米町ふるさと館より

 以上が小奴の生涯であったが、その中でも、僅かな間のつきあいであったにせよ、啄木との交際は彼女にとって何時までも胸に残っていた青春の楽しい思い出であったに違いない。

 釧路での小奴に戻そう。お互いに関心があった二人だから、楽しい付き合いを重ねてた。「小奴は送って行くと言うので出た。何かは知らず身体がフラフラする。高足駄をはいて雪路の悪さ。手を取り合って、埠頭の辺の浜へ出た。月が淡く又明らかに、雲間から照らす。雪の上に引き上げた小舟の縁にもたれて二人は海を見た。」と啄木は書いているが、まるで映画の一シーンをみているようなロマンチックな情景である。啄木はともかく小奴にとっては終生忘れられぬ思い出になったことであろう。

               しらしらと氷かがやき
               千鳥なく
               釧路の海の冬の月かな

 この名作はこの夜の印象を後で歌ったのかもしれない。

 その後来た小奴からの手紙。「子奴の長い長い手紙に起こされる。先夜空しく別れた時は唯あやしく胸のみとどろき申し候、と書いてあった。相逢ふて三度四度に過ぎぬのになぜかうなつかしいかと書いてあった。君のみ心の美しさ浄けさに私の思ひはいやまさり申し候。」とあり、この文面で見る限り、小奴の啄木に対する想いはかなり重症になっているが、啄木自身は彼女を同列には見ていないから、別段燃えてはいないのである。

 このあたりが前記した橘智恵子の場合とはまったく違っている。この手紙の返事を啄木は次のように書いている。「俺のほうでは、名もきかなかった妹に会ったように思ふが、お身は決して俺に惚れては可けぬ。」
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井上信興先生の
啄木研究
塚本 宏
掲載にあたって