四国遍路170万歩の旅

−定年遍路道中記−







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4月15日(木) 26日目 「両親を思い出す」  快晴

8:30宿出発…内子の町並み・高橋邸…大瀬
…落合トンネル15:30=車=広田村・研修の宿15:40着   <23.6キロ 31,513歩>

 江戸後期から明治にかけて和紙と木蝋で栄えた内子は八日市や護国地区の町並みに当時の面影を残していた。
 朝早く箒の音だけがする路地を、「卯建」や「白壁」を見上げながら一巡してから旧道を史跡・高橋邸に向かった。
 「お四国さん!道が違いますよ」とタクシー会社の奥から大きな声がした。高橋邸の方向が遍路道からそれているので心配して声をかけてくれたのだった。「お四国さん」と呼ばれたのは初めてだったが、もう躊躇しないで振り向いていた。

 
フレッシュパークからり
コンビニで今日の昼と夜、明日の朝と昼のおにぎりやパンを買って内子橋を渡ると、「道の駅フレッシュパーク からり」があり朝から賑わっていた。
 70歳ぐらいのお遍路が珈琲を飲んでいた。京都の人でお遍路3回目、今朝は大洲から歩いて来たと言う。話しをすると明日とあさっての宿が古岩屋荘、長珍屋と一緒だった。
 しばしの珈琲タイムののち小田川沿いの街道を大瀬に向かい歩き始めた。街道から見あげるとこんな急斜面にと思うような山の中腹に民家が点在していた。

 「谷間の村」大瀬の集落はもっと山間の深いところだと思っていたが、内子からそんなに奥ではなかった。大江健三郎氏のあの難しい小説には、この故郷の谷間の村と深い森を題材にしたものが多かった。
 橋のそばにある遍路休憩所の前にノーベル賞受賞記念の植樹が1本植えられ、旧道の古い家並みの中に彼の生家大江燃料店があった。
 
大瀬の館
何回電話しても繋がらなかった大瀬の館に寄ったが鍵がかかり開かなかった。土地の人に聞くと元の村役場を復元した交流の館で展示室や喫茶室を土・日だけ開けると言い、恒常的な宿泊施設ではなくガイドブックに載せるのが間違いだった。

 24度になるといっていたが今日は本当に暑い。ときたま通る車の音以外はうぐいすの声しか聞こえない。おにぎりを食べていると楽水大師の前で休んでいた京都の大先輩がお先にと行かれた。この先の突合を彼は右に小田町に向かい、私は左に上田渡から落合トンネルに向かう。
 山を切り開いた道は立派な道路でその中にポツンポツンと小さな集落があった。いくら生活道路といっても利用状況からみたら両側歩道の2車線のこんな立派な道路が必要なのか。北海道の高速道路は熊が歩くといった大臣がいたが、メンテなどを考えると全国一律の道路行政はやはり考え直す時期にきた事は間違いない。
 徳島でも高知でもこの愛媛でも、美しい山を切り崩して道路や砂防や護岸の工事がまだまだ続いていた。

 
広田村交流ふるさと
研修の宿
落合トンネルに予定より早く着き、電話を入れて迎えに来てもらった。さすが車は早い、あっという間に公園に着き、最後の300mぐらいの高低差をらくらく登って「広田村交流ふるさと研修の宿」に着いた。
 木材をふんだんに使った100人は泊れる大きな施設で、1階は大きな研修室と食堂、2階は旅館顔負けの和室が8室あり、山の中腹にある部屋からは萌黄色に輝く山々が見え、心地よい春風が吹きぬけた。
 ここは広田村の研修施設で今日は私ひとりのためにお風呂を沸かしてくれた。このニコニコと迎えてくれた顔を一生忘れまいと思った。

 おにぎりを17時過ぎには食べてしまい、ガイドブックの新旧2冊を見比べながら1日毎に計画を積み上げ、18日を松山三津浜港の旅館、19日は大西町のビジネスホテル、20日が丹原町の栄屋旅館、あいだの2日間はこれからとして23日を民宿岡田に泊まることにした。すぐに電話を入れ、幸い栄屋旅館、民宿岡田とも予約が取れて安堵した。

 真夜中に突然目が覚め、急に父と母の顔が浮かんできた。父と釣りに行った幼い頃の思い出や母と一緒の入学式、そして晩年の年老いた両親の姿が次から次へと浮かんできた。両親の愛によって生まれ育まれ、今日の自分があることを思うと布団の中で涙が止らなくなった。
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