四国遍路170万歩の旅

−定年遍路道中記−







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3月25日(木) 5日目 「義経が通った道」  曇(夜に雨)

8:15ホテル出発…徳島城8:45…18番恩山寺(11:30〜55)…お京塚
…19番立江寺(12:50〜13:20)…沼江大師
…勝浦町・民宿金子や16:10着  < 29.7キロ  30,635歩>

18番 恩山寺
19番 立江寺
勝浦町・民宿金子や
 「18番恩山寺(おんざんじ)」までは眉山の麓を回るのが旧へんろ道だが、徳島城に寄るので駅近くの徳島厚生年金会館を予約していた。長年かけてやっと厚生年金の受給資格を得た。俎上にあがった立派な年金施設は今までは利用したことがないが、調べると年金受給者は他の人より値段も安く泊まれので今度の旅では大いに活用しようと考えていた。いずれは無くなるこれら施設のほんの一部だが、建設費を負担したのだから。

 朝食はバイキングで久し振りのパンと珈琲、生野菜をいっぱい補給して出発、目の前の城山に登った。蜂須賀小六の城跡には「天守跡」の標識が1本立っていただけだった。
 駅前交差点でおばあさんから「ご苦労様です。お気をつけて」と励まされて元気百倍、国道11号線・55号線を南下。しばらく行くと遠くに千田さんと大学生の後ろ姿が見えた。
 昨晩は公園で野宿したが寒くてほとんど寝られなかったそうだ。3月は三寒四温、まだ気候が安定しない。日中の17度前後の温度は歩くには最適だが、朝や雨の日はまだ肌寒かった。ウインドブレーカーを持ってきて正解だった。

 国道を約3時間歩いて恩山寺へのへんろ道に入るとほっとした。四国を歩いてまだ4日だが、久しぶりに都会にでて自動車と人の雑踏の中を歩きて、ものすごく気疲れがしていた。
 東京生まれの東京育ちの私にもふるさとがある。子どもの頃、昭和30年代の東京の山の手はどこもまだ緑が色濃かった。近くの弁天池でザリガニやかえるをつかまえ、八幡様の木に登ってはジャングルごっこをして遊んだ。
 おいしい空気と水、土の匂いがあった。そして町内の人はみな顔見知りで「向こう三軒、両隣り」の近所付き合いだった。
 排ガスで汚染された空気やカルキくさい水やコンクリートしかない今の東京は、「緑」を失うとともに、「人の情」も薄れてきた。へんろ道に入り心が安らいだのは、「空気」や「水」や「土」が活き活きしている四国の自然に、自分の幼い頃を思い出し、日本の原風景、ふるさとを見出したのかも知れない。
恩山寺近く

 途中、平家追討に向かう「源義経上陸の地」の碑の前を通り恩山寺に着いた。恩山寺は山裾にある静かな落ち着いたお寺、ちょうど桜が満開だった。次へのへんろ道は恩山寺の裏手の竹やぶの中を抜けて釈迦庵を過ぎると細い道に出た。
 この道は「義経が屋島に行く時に通った道」と書かれていた。静けさの中に一瞬馬のひずめや弓矢の音が聞こえるような錯覚を起こした。このお遍路の旅では想像を豊にして、こんな時空を超えた歴史の世界へも旅してみたかった。

 
立江寺
満開の桜に囲まれたお京塚を通り、「19番阿波の関所寺・立江寺(たつえじ)」までは約1時間かかった。札所手前の立江郵便局で初めて軍資金3万円を下ろす。近くに食堂を探すが見当たらず、饅頭屋で名物の立江饅頭と八百屋でバナナを買った。今日の宿の金子やは鶴林寺の麓に1軒だけある遍路宿で、先輩遍路から16時前に着いても絶対入れない、玄関前で待たされると聞いていた。ここから10キロ、のんびりと歩いて2時間半でちょうど16時だ。
 宿へ向かう県道はダンプカーがひっきりなしにものすごいスピードで通り過ぎてゆく。歩くのが悪いように、その度に端に避け小さくなって歩いた。
 縁結びの「番外札所沼江(ぬえ)大師」にお参りし、軒下を借りて満開の桜を見ながらコンビニで買ったアンパンとバナナで遅めの昼食をとった。

 金子やの前で寝場所を探す野宿組と別れ宿に入った。決してサービスがいいとは言えないが、鶴林寺・大龍寺を歩くには絶好のポジションであり歩き遍路のほとんどはこの宿に泊まっていた。
 大きな風呂で汗を流し17時半に夕食。広い食堂でそれぞれ席が離れていて話をするには遠い。女性のペア、初老の夫婦2組、父と中学生の親子連れ、私を入れて60歳過ぎの男性4人、明朝鶴林寺に登る歩き遍路12人だった。
 夕食のあとで明日の昼食用にとおにぎりの注文を取ってくれた。明日は1日中山の中、カロリーメイトとバナナと残りのパンでと思っていたが、助かった。この3日間小便が黄色かったが今日はいつもに戻っていた。
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