高島靖男のインド日記
1月30日(土) インド人は本当に賢いのか?
  どうもインド人は頭がいいらしい。数学の実力は抜群だ。二桁の掛け算を小学生のころから暗算でできる。そういえば10進法の基本を見つけたのもインド人だ。ゼロの概念を見出したのもインド人だ。ゼロを意味するサンスクット語は「シューニヤ」と言い、それは「空」や「無」を意味するそうだ。我々には使い方がわからないコンピュータも自在に扱うことができる。言葉もヒンディー語を始め、最低でも5言語くらいは話す。インドに行く前の私にはそれだけで十分にインド人が優秀だと思っていたし、疑問も持たなかった。
日本語教室生徒(写真をクリックするとスライドショウ)

  ところがインドに赴任してインド人IT技術者を相手に日本語を教えているうちに何が優秀なのか?頭がいいのか?わからなくなってきた。生徒の一人は「先生、翻訳チームに異動したいんですがヒテーシュさんに話してくれませんか?」と言ってきた。私は社長直属でどこの部署にも属していないが、翻訳スタッフの相談を受けている。そんなこともあり頼んできたのであろう。「君はITエンジニアだろう。ITをやりたくて会社に入ってきたんじゃないの」と私が言うと、「でも日本語が出来る方が優秀そうに見えるんです」と彼は答えた。たしかに私の勤めている会社ではITエンジニアより翻訳チームのスタッフの方が優秀と思われている節がある。翻訳チームのPさんなどは、ITエンジニアでもないのにIT翻訳(英語から日本語、日本語から英語)はピカ一である。
  「頭がいいらしい」とか「インド人は優秀だ」というのは抽象的すぎる。
勤務先オフィス
本当に優秀なのか?具体的にどのように優秀で、なぜ優秀なのか次第に気になりはじめた。頭脳の構造が他の民族と違うのか。ベジタリアンが多いからなのか。インドの言語がコンピュータの言語と似ているからか。インド人のしゃべることと、頭の回転に何か関係があるのだろうか。しかし一方では、詰め込み教育の弊害で「考える力が弱い」というウィプロ社が発表したリポートもある。たしか世界の四十数カ国のなかでインドの子供の学力は30番台であった。
  口では負けないインド人を相手に授業をしている。そしてそのたびに実感することだが、質問に答えないインド人が実に多い。少なくとも日本人に比べると、質問の意味を行間まで読み取ろうとすることは少ない。こちらが何を聞いても、その質問に答える前に、まず自分が言いたいことをしゃべりだす。口ごもることは少ない。日本語授業をやっていて、誰かを指名して質問してもクラス全員がわれ先に答える。答えなければ存在価値が失われるかのようだ。大分慣れたがそれでもこの習慣にはなれることができずにいる。
  本当にインド人は優秀なのか。かなり怪しいと思うようになっていた。識字率<注>のデータを見ると成人の三人に一人は読み書きができない。IT分野は世界の注目を浴びてはいるが、ソフトは外国向けの輸出が中心で、インド国内はまだITが十分活用されているとは言い難い。パソコンを持っているインド人はごく一部で、英語を話せるインド人も人口の比率で言うと、ごくわずかしかいない。日本の人口を上回る数の人たちが文字を読めない国なのである。しかし世界の人口の六分の一がインド人なんだから、その中に優秀な人材がいるのは当り前とも言える。

<注>インドの識字率は65%。11〜14歳の子供のうち、学校に通っているのは61%。14〜18歳で、39%。18〜24歳(大学生?)で7%。(出典:インド文部省年次報告・国家知識委員会)

  ここでインド社会の特殊性について触れてみたい。インドはヒンディー教の社会であるが実際には、新しい産業や職種を生み出すのを嫌い、パルシーやシークなどの外部勢力が横断的に役割を担っている社会と言えるのである。
シン首相
具体的に言うとシン首相はシーク教徒である。経済面でもヒンズー教は目立たない。インド最大の財閥タタグループのタタ家はパルシー(ゾロアスター教徒:「インドの財閥」をご参照)である。インドの経済首都ムンバイの昼間はゾロアスター教徒の街といっても過言ではない。
  先進国の多くは、第一次産業、第二次産業、第三次産業の順に発展する形をとってきた。ところがインドは第一次産業、第二次産業を通り越して一気に第三次産業の商業やサービス業に突入した。IT、製薬、医療、映画、インドを賑わす分野はいずれも第三次産業(「超カースト産業」)である。重要なのは、こうした「超カースト産業」は人口の80%を占めるヒンズー教徒が中心だからこそ「力」になりえた、ということである。身分制度に縛られるのは嫌だ、という若者が頭脳を武器にインディアン・ドリームの実現に向けてまっしぐらに突き進んだ、と言える。
   以前に私の生徒たちの家庭環境を紹介したことがある。
オリッサ州(写真の赤いところ)
大半はインド人の水準からすれば裕福という階層になると思われるが、日ごろ話しているといろいろなことがわかってくる。
  生徒の一人R君(オリッサ州出身<注2>)が生まれ故郷の様子、大学の仲間の話をしてくれた。彼は地元で職を探したが見つからず鉄道で10時間もかかるムンバイに出て来ている。「村には電気が来ていなかった」「家には机はなく、寝転びながら勉強した」「兄弟は六人だった。自分だけが上級学校へ行った」「家に床はなく、土の上に寝ていた」等々。そして生徒に作文してもらうと、「親を楽にしてあげたい」「インドのために働きたい」が圧倒的に多い。
   インド人が優秀ということを一言でいうのは難しい。だがインド人が優秀になろうとする理由はそれほど難しくない。インド人はグローバル化の波に乗ろうとしている。
アマルティア・セン氏
その原動力となっているのが、貧しさから抜け出したい、親を楽にしてあげたい、というエネルギーである。そして実際に貧困という強力なインセンティブでグローバル化の波に乗った、と言える。
  ノーベル経済学賞を受賞した経済学者アマルティア・セン<注3>。彼が受賞したのは「その頭脳がすぐれていた」からではない。「貧困」という人間普遍の問題に正面から取り組んだからにほかない。
以下は彼の論文の抜粋である。
  「…われわれがケーキを分けるときのことを考えてみよう。どの人間にとってもケーキは多ければ多いほど望ましい、と仮定すれば、その仮定だけで、すべての分配の仕方はパレート最適である。ある人間をより満足させるようにケーキの分け方を変えれば、他の誰かの満足が必ず減じられるからである。このケーキの分割の問題における唯一の主要な問題点はその分配なのであるから、ここではパレート最適の考え方はなんの効力ももち得ない。こうして、ただひたすらにパレート最適のみに関心を寄せてきた結果として、せっかくの魅力的な一学問領域であるところの厚生経済学が、不平等の問題の研究にはすっかり不向きなものとなってしまったのである。」

  「インド人は本当に賢いのか?」。私は「貧困」が原点、と思っている。みなさんはどう思われるだろうか?

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