10月14日(水) フレディ・マーキュリーの哀しみ | ||||||||||
本名をFarrokh Bulsara(「ファーロク・ブルサラ」)という。彼の生い立ちを語るとき、「パールシー、つまりはゾロアスター教徒(注1)の家系から出たアフリカ生まれのインド人であり、生後少し経ってから、両親ともどもインドに戻り、ムンバイから程近い風光明媚な丘陵の地パンチガニ(注2)で幼少時代をすごした」ということを抜きには語れない。 クイーンが登場した1973年頃は、時代的にも、まだ「インド人」とは名のれなかったのだろう。じつはアフリカ生まれのインド系の若者がロンドンを牛耳って、世界に進出していった。痛快な話である。そしてこの「ボヘミアン狂想曲」の歌詞の意味は何だろう?と誰もが興味を持った。 フレディは「ただのお話だ。僕にもわからないよ」と答えている。本当にそうだろうか?とムンバイに暮らしている自分は思う。1973年当時は自分にも意味はわからなかったが、ムンバイに生活している今ならこの歌詞の意味がわかる、と思うのである。 ボンベイのビル街はイルミネーションに輝いている。政治都市デリーとは違って、経済都市ボンベイは道行く人もスーツを着こなし、さっそうと歩き、オフィスビルに掲げられたベネトンなどのファッション企業の広告も垢ぬけている。中国人のシェフがいて、本格的な中国料理が食べられるのも、この街ならではのことだ。インドでは珍しいコスモポリタンな都市文化の蘭熟という雰囲気が漂っている。しかし、目を脇にやると路上で生活する親子の寝姿。
丘の上まで広がったスラム街。貧しい農村からどんどん農民が流れ込んで、巨大なスラムが形成されている。
最も西洋的でありながら、ガンディーに代表されるように最も民族主義的でもあるムンバイ。フレディはこの街で育ち、この街の空気を吸って生きてきた。その間に彼は、何を見て何を感じていたのだろう。両親とともにイギリスに行った彼が、再びムンバイに戻ってくることはなかった、という。 母さん、たった今僕は人を殺してしまった。 ああ、母さん、母さん、母さん、僕を逃がして。 どうか許しておくれ。 ビスミラ<イスラム語の祈りの言葉>、いや、お前を許さない。 故郷を捨てたムンバイ少年の哀しみが、この曲の底流に漂っているように感じてしまう。この曲、歌詞が「混沌のインド」から派生しているとすれば、妙に納得できるのである。彼の経歴を読むと、好きな食べ物のひとつに「インド料理」とあるのが、哀しさを引き立たせる。 |
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