高島克規のインド日記
8月24日(月) インドとビートルズ
   今回は全く別の角度からインドを書いてみたい。以前、シタールがビートルズ音楽に大きな影響を与えている、と紹介したことがあった。
 アルバム「ラバー・ソウル」(1965年12月発売)の「ノーウェジアン・ウッド」でジョージ・ハリソンの弾くシタールが印象的に使われている。これはジョン・レノンのアイデアによるものだが、ビートルズの曲としては勿論、ポップ・グループの曲にシタールが使われたのは音楽史上初めてのことだった。  まず、ビートルズとシタールの関係について時系列的に追ってみた。発端は映画「Help!四人はアイドル」の撮影中とされている。インド・レストランにおける活劇シーン。
ラバー・ソウル レコードジャケット
  そのレストランで“食事のお供”としてシタールを演奏するインド人ミュージシャンが登場する。  そして彼らの演奏がビートルズの関心をシタール・インド音楽へと向かわせるきっかけとなった。
  イギリスのBBC放送では長期にわたって毎週土曜の夕方、インド音楽を紹介するラジオ番組を放送していた。イギリスにはインドからの移民がたくさんいたからであろう。ビートルズはじめイギリスのミュージシャンがシタール・インド音楽に抵抗なく接近したのはこのような背景があった。
ジョージ・ハリソン

 1965年8月アメリカ・ツアー中のビートルズはロサンジェルスのあるパーティでザ・バーズのメンバーと会う。このとき、ジョージはラビ・シャンカール<注>を紹介され、「ポートレイト・オブ・ジーニアス」含む数枚のシャンカールが発表したLPを買いこんだ。そしてロンドンに帰ると小さな民芸品店で安物のシタールを手に入れたのである。
 1966年7月ビートルズはインドへ立ち寄っている(6月下旬に日本で公演をしている)。その時、ビートルズは、シタールやインドの民族楽器の専門店「リキ・ラム」のスタッフをホテルの呼び、シタールの講習を受けている。その時、ポールはシタールを購入したようである。
ラビ・シャンカール

楽器店 シタール

  「ノーウェジアン・ウッド」のシタールはジョンが、いっぷう変わった雰囲気を出すために用いられているだけである。つづいてローリング・ストーンズの「黒くぬれ!」では、ブライアン・ジョーンズがシタールをギターのように弾きこなしているが、これもシタール本来の奏法でなく、エキゾチックなムードを出すための楽器という扱いにすぎない。
  「リボルバー」に収録されているジョージの自作曲「ラブ・ユー・トゥ」は、それらとは全く異なっている。ジョージはシタール、タンブーラ(持続低音専用の伴奏用弦楽器)、タブラ(打楽器)にロンドン・アジア音楽サークルのインド人ミュージシャンを起用し、正統的なインド音楽をベースにこの曲を作り上げている。この曲をきっかけに、アジア音楽サークルの仲介でジョージはラビ・シャンカールに会い、シャンカールの個人レッスンを受けた。ますます意欲と興味をそそられたジョージはムンバイに渡り、シャンカールのもとでおよそ1ヶ月間本格的な理論と演奏技術を学ぶとともに、そのために必要なヨガの修行にいそしんだ。
リボルバー レコードジャケット

  ジョージにとって、インド音楽を知ることは、インド哲学とヒンドゥーの教えに帰依することでもあった。ラビ・シャンカールは音楽的導師(グル)であると同時に精神的指導者ともなった。ジョージは「ラビ・シャンカールとともにムンバイで過ごしたとき、初めてビートルズから自由になれた気分だった」と語っている。この経験がなければジョージは相変わらずジョンとポールの影で埋もれていた可能性が高いと個人的には想像している。
  ジョージがインド音楽に入れ込んだのは時間の浪費だったとか、御遊びに過ぎない、ジョージの音楽性に何ももたらさなかった、と否定する向きもある。確かにビートルズとしてレコーディングされたジョージの曲は一般に思われているほど多くない。「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に収録された、「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」、それにシングル「レディー・マドンナ」のB面「ジ・インナー・ライト」のみである。しかし、彼のインドへの傾斜がこの時期のビートルズに与えた影響は大きい。

  「トゥモロー・ネバー・ノウズ」でのシタールとタンブーラによる持続低音、それに「ストロウベリー・フィールズ・フォーエバー」における、スワマンダル(テーブル・ハープのようなインド楽器)の響きが、この画期的二曲には欠かせない要素であり、ジョンの曲「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」やポールの「ゲティング・ベター」にタンブーラが効果的に使われているのも、ジョージの存在なくしてはあり得なかった。インド音楽は、この時期のビートルズ・サウンドのレシピに欠かせないスパイスであった。

  当時の「オブザーバー」誌に、「西洋はアジア大陸との周期的な親密関係に入ろうとしていた。1世紀前にマダム・ブラヴァツキー<注>がヒンズー教と仏教に興味を抱いて以来、インドの神秘主義は西洋のインテリたちの間に染みわたっていた。チェルシーのシックなマンションに漂う東洋の風とノッティング・ディルの麻薬は、仏教国ネパールか北アフリカから運ばれてきたものだが、その文化の純粋さについてとやかくいう者はいなかった」と記載されている。

  もう故人となっているジョージ・ハリソン、ブライアン・ジョーンズは果たしてシタールの向こうに何を見ていたのだろうか。インド生活も一年になろうとしているが、凡人の私には何も見えてこない。
目次に戻る