四国遍路170万歩の旅

−定年遍路道中記−







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4月22日(木) 33日目 「平成お遍路さまざま」  快晴 真夏日

6:30宿出発…63番吉祥寺(6:40〜7:05)…64番前神寺(7:50〜8:10)
…土居町・蔦廼屋16:10着  <33.5キロ 44,779歩>

63番 吉祥寺
64番 前神寺
土居町・蔦廼屋
 10分程で「63番吉祥寺(きっしょうじ)」に着き、朝一番のお参りを済ませ納経所が開くのを待つ。
 先ほどから老婆が本堂と大師堂の納札の箱をのぞいて手を突っ込んでいた。聞くと錦札や金の札がないか毎朝探しに来るのだと言った。錦札はお遍路を100回以上回った証の札で、見つかったら宝物にすると言った。
 7時納経所が開きご朱印をいただき、歩き遍路さんにと伊予みかんの缶ジュースをお接待いただき、旧道を行くとしばらくして周りは物静かな田園風景に変わっていた。

 農道が二又に分かれどちらがへんろ道か迷った。あたりを見渡すと、遠くの方で軽トラックの傍で右の方へ手を大きく振っている人がいた。ここでも誰かがお遍路を見守っていてくれた。声の届く距離ではないので「了解・ありがとう」と頭をさげ、杖を高く上げて応えた。

 石鎚山の麓、うっそうとした杜の中にある「64番前神寺(まえがみじ)」は石鎚派の総本山として、
前神寺 石鎚神社
隣の石鎚神社は本社として、それぞれ霊峰石鎚山の山岳信仰の根幹をなす神社仏閣だった。
 この前神寺から三角寺までは45キロ、今日はそのうち伊予土居駅前の蔦廼屋まで28キロを歩くのだが、猛烈に暑く日陰のない道路でうんざりした。

 前の方にキャリーバックを引いたお遍路さんが歩いていた。後ろから見ているとところどころで一瞬姿が消えた。
 なぜかと思ってその場所に着くと自販機があった。釣銭が残ってないか1台1台探していたのだろうか。追い越しながら挨拶したが一瞥されただけだった。

 歩いていて台車に荷物を載せて歩いているお遍路を何人も見かけた。この平成の世でもいろいろな事情から一生四国を回り続ける人が何人もいると聞いた。NHKのテレビ放映で顔が映り、時効寸前で捕まった殺人犯も何年も四国を回っていた。
 また、「職業遍路」や「生涯遍路」という言葉を何回も耳にしたし、遍路を装った托鉢や錦札の詐欺の話も現場を見た人から聞いた。お遍路は様々あってよいのだが、我々お遍路もお遍路としてのルールやマナーをきちんと守ることが土地の人たちに対しての礼儀であり、今日まで続いてきたへんろ道を後世に残すために大切なことだと思った。

 今日は本当に暑い。30度は越えているだろう。歩くペースがガクッと落ちた。お腹がすいたが旧道にはなにもなく再び国道に出てレストランを探した。ようやく3キロ程歩いた星原町に中華レストランを見つけた。黄金炒飯を注文、ファミレスなのでサラダと飲み物自由なのが気に入って一時間たっぷり休んだ。
 旧道と国道を交互に歩き、土居町から6キロ手前の「ドライブイン スズラン」で2度目の休みをとった。
 スズランの目の前には標高1453mの赤星山とその後ろには1000mを越す山々が聳え、「あの山の裏側が別子銅山、その向こうは高知県」とママさんが教えてくれた。ママさんにサイホンで入れた珈琲と、おまけに鯛のうしお汁までご馳走になってしまった。

 蔦廼屋は昭和の初めに料亭から始まった由緒ある旅館だった。電話をかけたとき「大きな部屋ですがよろしいですか」と念をおされたが、宴会場の大広間を3つに間仕切りした大舞台付の24畳の部屋に、布団が1組寂しそうに用意されていた。間仕切りの隣の同じく大部屋はこの宿は2回目という寺山さんで、今夜の泊まりは我々2人だけだった。
 階下の割烹「蔦」 に夕食が用意されていた。寺山さんとは内子からだからもう1週間近くになる。道中親切にアドバイスいただいたが、ゆっくり話すのは初めてだった。
 京都の人で事業を譲り、3回目のお遍路だがとても76歳には見えない元気な足取りだった。地酒もうまかったが寺山さんお勧めの最後に食べた手打ちそばは最高だった。朝食は7時からというので、おにぎりをお願いして支払いを済ませた。
 雲辺寺を越えればあとの難所は女体山越えだけだ。
 連休に入ると宿がとりにくくなるが、どうやら4月中に大窪寺につける目途がついた。最後の7日間は、丸亀城や金刀比羅参り、高松では栗林公園や玉藻公園の名所見学なども加えて時間を設定、宿泊地を決めた。
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