啄木を支援した人々    井上 信興    
4.「小樽日報」の人々(3)
 釧路の駅舎は街の郊外に出来たから駅前などは人家もまばらで灯火も乏しく、ぼんやりと雪明りに霞む舎外の風景はなんとも寂しいものだっただろう。

                   さいはての駅に下り立ち
                      雪明り
                         さびしき町にあゆみ入りにき

 啄木は当時の心境をこのようにうまく歌っている。
当時の釧路駅夜景(反田十郎画)
筆者提供

 十町ほどもある雪道を浦見町の佐藤宅まで歩いて行った。北海の冬の冷気は容赦なく華奢な啄木の体にしみ透ったことだろう。この夜は佐藤宅に泊めてもらう。翌朝目を覚ますと、夜具の襟が真っ白に凍っていた。顔を洗うとき、石鹸箱に手がくっついた。

 日景主筆が迎えに来たので共に出社する。新聞社はレンガ造りの新築で美しく、啄木はかなり気に入ったようだが、ここでも例の如く一年もどどまることは出来なかったのである。来たからには新聞に情熱をそそぐしかなかった。三面主任ということだったが、他に有能な社員も居ないことから、編集のすべてが啄木にまかされたので編集長格ということになった。

 翌日用意してくれた関下宿屋に移る。八畳一間だが家財道具をいっさい持たないのだから、火鉢一つの部屋は寒い。

 出社して間もなく白石社長の招待で従業員一同、釧路第一の料亭「希望楼」で宴会が持たれた。釧路は当時人口一万三千ほどの小さな港町てあったが、最近出来た「北東新報」と戦いつつ、漸次紙面を拡張してゆこう、というのがこの夜の決定であった。
「白石義郎」釧路新聞社長
筆者提供

 啄木は例によって最初は意欲をもって仕事に没頭した。「釧路詩壇」を新設して一般から詩歌の募集をした。はた「雲間寸感」と題して女性問題や政治評論なども書き、二月に入って少し土地に慣れると、「紅筆だより」などと言った花柳界の消息などにも手をそめるようになった。したがって従来の紙面とは別になり「北東新報」はたちまち圧倒された。この状況をみた社長は啄木を呼び「昨日あたりから新聞の体裁が別になった」と言って大いに喜び、五円と銀環の時計をもらった。

 だがこの釧路では料亭に行く機会が多く、二月だけでも八回行っている。啄木が親しんだ小奴と出会ったのは案外後のことで、二月二十一日の会合の時であった。小奴というのは今まで見たうちで一番活気のある気持ちのよい女だといって啄木の気に入ったようである。小奴もたちまち啄木を恋した。小奴近江ジンは明治二十三年函館で生まれた。啄木より四歳の年下である。九歳の時養女に出されたが、養父の死去にともない帯広の料亭に預けられて芸事を習った。後に母が再婚していた旅館に移り、ここから、鴨寅の専属芸者小奴として出た。啄木は釧路で初めて芸者遊びを経験し、    

                   火をしたふ虫のごとくに
                       ともしびの明るき家に
                          かよひ慣れにき

 柄にもない芸者遊びにうつつを抜かしている間に、借金は二百円というとんでもない額に達していた。

 したがって小樽にのこしてきた妻子への送金など出来るはずはない。落ち着いたら早く家族を釧路へ引き取るという約束だったが、沢田編集長が様子を見に妻子を尋ねてみると、家族三人は健在であったが、家はとんでもない状況になっていた。玄関を入ると、二枚の障子が取り払われて、表の風が吹き曝しになっていた。また奥の六畳間との境の襖四枚もはずしてある。火鉢に親子三人が身を寄せ、厳冬の北風は容赦なく吹き込む。どうしたことかと訳を聴くと、実は啄木から金が来ないために、今朝道具屋に売り払ったのだという。その翌日近所の一部屋を借りて移った。建具を打った金も使い果たし、その間啄木からはまったく送金はなかった。ついに節子は京子をおぶって、二三日おきに沢田編集長宅を訪れ、彼の母から米や木炭それに漬物などを借りてゆくようになった。この生活に耐え切れず、祖母カツは娘の嫁ぎ先山本家へ去っていった。

 遺された親子は悲惨なものであった。いまだ二十二の若い婦人が幾日も櫛を入れない油気の抜けた紙を額から頬にたらして、七輪に僅かな炭火起こして、京ちゃんを抱いたまま悄然としている姿を、啄木など全く想像だにしなかったであろう。と、沢田氏は「啄木散華」という回顧録で述べているが、啄木日記によれば、二月一日「午前中に為替で十八円小樽に送り、別に一円節子へ。」二月五日の日記には「午後四時編集を締め切り帰る。節子から金受け取ったという手紙がきていた。」啄木は送金したと言い、節子も受け取ったといっているのだから、読者はどちらを信用すればいいのかわからない。
旧釧路新聞社復元建物
釧路観光協会より

 沢田氏の文章は啄木の死後昭和十三年五月「中央公論」に発表されたもので少々面白く読ませるために虚偽の記載をされたのではないかとも考えられる。啄木の日記を事実としての話であるが.しかしその後、芸者遊びに現を抜かし、二百円もの多額の借金を背負う身になっていたからこの借金地獄から抜け出すきっかけを模索するのが先決であった。

 沢田氏への手紙に「小生も一日も早くと存知おり候へども、一軒の借家さえなき当町のこととて、四月中旬頃までには必ず何とか出来るものと存知候」などといい加減なことを書いているが、その頃彼は釧路にいるという保障はなかった。二月二十九日の日記に「釧路に来て、本を手にしたことは一度もない。芸者に近づいたのも初めてだがそれを思ふと淋しいかげがさす。」ここにきて啄木も本来の姿をとりもどしたようである。そして釧路を去る決意を固めた。

 三月から休むことが多くなったので主筆が上京中の社長に連絡したのであろう。社長から電報が入った。「ビョウキナヲセヌカ」この電文が釧路脱出の切っ掛けになった。四月五日午前七時半、彼は酒田川丸で海路函館を目指した。借金は放棄したまま、再び釧路に帰ることはなかった。
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