啄木を支援した人々    井上 信興    
3.啄木と小田島尚三(3)
 「啄木の現時点での評価では出版は無理だが、資金を出すのなら出来ないことはない。ついては一度本人に会ってみたら。」という意見であった。

 尚三氏は早速啄木の下宿を訪問した。「少しほら吹きだという感じを受けたけれども、ただ眼がとても澄んでいて美しいので、詩人とはこういうものかと思った。真平が『文学的才能の有る人だ』と推薦したが、結局私も啄木に魅せられてしまったわけでしょう。」こうして尚三氏は啄木の詩集発刊に協力することにした。

 当時尚三氏は日本橋区青物町の「八十九銀行」に勤務していたが、日露戦争の最中であり、この年四月には入隊する予定になっていた。戦地に行けば、当然生死もわからぬ身であったから、この際真平の推薦する啄木の詩集「あこがれ」のために、これまで貯蓄していた二百円を提供することにした。
「筆者著述の石川啄木小論集」
渓水社

 「あこがれ」出叛についてはこれまで私の視界に入った文献では、「小田島三兄弟の協力によって」と簡単に三人を括って述べられているが、しかしその貢献度は同一とは言いがたい。もしこの時、尚三氏が資金を提供する意思がなかったら、当然「あこがれ」は世に出ることが無かったかもしれない。

 この点を考えると、啄木にとって尚三氏はかなり重要な位置を占めている人物だったと言える。啄木の経済的支援者として宮崎郁雨氏が有名であるが、啄木の借金メモ以外に私の調査結果を加えると二百六十円ほどになる。しかし金額が明快になっているもの意外に数々の支援をしているので、そうしたものを加算すると、三百円以上になることは確実だと思う。

 しかし郁雨氏の場合をのぞけば二百円という高額の支援をした者は小田島尚三氏以外には存在しない。私がかねてから不満に思っているのは、研究者の間でも、小田島尚三氏の評価が少々低いのではないか、ということである。というのも、啄木に関する辞典などを見ても、その中で、個人名を搭載しているのは、啄木との関係上重要な人物だろうと思うが、たとえば、司代隆三氏編纂の「石川啄木事典」を見ると、小田島孤舟の名前は出ているが、同じ小田島でも尚三の名はない。近年出版された国際啄木学会編「石川啄木事典」でも前者同様に小田島孤舟は出しているが尚三は搭載されていない。つまり事典編集者は尚三氏より孤舟氏のほうを重視しているということであろう。

 学会編「石川啄木事典」で小田島孤舟氏の部分には次のように書かれている。「小天地社に啄木を訪ね交際が始まる。啄木の小天地社時代を知る貴重な存在である。」とあるが、孤舟氏がまだ盛岡師範の学生時代に友人と二人で二度ほど遊びに行ったことがある程度の話で、貴重な存在というのであれば、大信田落花氏が該当者であろう。

 彼は啄木と共に「小天地」を発刊し、その費用をすべて持った人物だからである。孤舟氏は一応歌人であるが、啄木からみれば短歌上の弟子であるに過ぎない。啄木が孤舟氏に送った書簡は七通ほど残っているが、どの文面も短歌の指導的内容になっている。たとえば、「囚はれたる空想より一歩脱却して初めて真の歌出づべし、もう少しなり。」とか「幼稚なる叙景とか、叙事の歌に趣味を有するうちは駄目なり。」また「今一度か二度、お作を拝見したる上にて『新詩社』に推薦いたしたく存知候。」この文面を見ても、小田島尚三氏を落としてまで、孤舟氏の氏名を搭載出来ると思う人はあるまい。

 事典編集者の小田島尚三氏に対する認識の甘さとも言えるが、啄木詩集「あこがれ」の出版については、「小田島三兄弟の協力によって、」と三人をひと括りにして述べられる事が多いので、中から一人だけ取り出すわけにもゆかず、それかと言って、三人全部の氏名を書くこともできず、結局無視したような結果になったようにも考えられる。
渋民の曹洞宗 宝徳寺
筆者提供

 啄木は詩集が出来たのはうれしかったに違いないが、出資者の尚三氏に対して「ありがとう」というお礼の一言もなかったという。啄木にしてみれば、詩集の原稿を出版社に売ってなにがしかの金を手に入れようと考えていたので、全く金にならなかったから、お礼の言葉も出なかったものと思う。というのも、当時啄木の父は住職の地位を追われ、故郷渋民を出て盛岡に移っていた。寺を出れば当然無収入になる。そしてこの月末には節子との結婚式が予定されていた。啄木にしてみれば何としてもある程度のまとまった金を用意する必要にせまられていた。彼の華奢な双肩に重い責任がのしかかっていた。しかし金はできず、結婚式にも出なかったのである。その後めぼしいところを回って努力していたようだが、目的を達することは遂に出来ぬまま、両親と新妻節子の待つも盛岡の新居に帰ってきたのである。

 尚三氏に対して、謝礼の言葉もない啄木の態度に、心中不快の念を持たれたとは思うが、直接啄木にたいして苦言を言ったという記録はない。啄木というのは、自己中心の人間であることが、こうしたケースにもよく出ていると思う。
啄木と節子の結婚写真
筆者提供

 さてここで一般の読者にはあまり興味がもてない問題だとも思うが、これまでの文献ではほとんど触れられていないとの考えから、少々述べてみたいと思う。それは「あこがれ」に関する「紙型」の問題である。「紙型」というのは印刷用語で辞書「広辞苑」によると、「活版印刷で鉛版を鋳造するために特殊な紙を組版に当て、押圧して型を取り乾燥させた堅紙製の鋳型、これに鉛合金をとかして鋳込み、印刷用の鉛版をつくる。」とあり、昭和十一年四月一日、の「岩手日報」に松本政治氏が「啄木新発見一二」という文章の第一回目に「あこがれ」の「紙型」について述べられている。「『あこがれ』を刊行して世に問うた書店が当時東京に出ていた小田島書房だ。詩集「あこがれ」の紙型を三十二年後の今日まで立派に保存していることが、今回明らかにされた。紙型はその時のもので、東京秀英社で作ったので未だに確りしているが、一部は明治四十三年の中津川の洪水で水浸しとなったが、残り七十枚余が大阪の柳屋画廊に買い取られた。しかしその後売りに出され誰が買い取ったかは不明だ。」という。

 私は当時病気入院中の、尚三氏のご子息である小田島雅三氏とご縁ができて数回の文通で記念にといってカラー写真の「紙型」を一枚頂いた。これは「あこがれ」の目次だっだが、昭和五十年代に写された写真で雅三氏所有の現物を雅三氏自身が写したものか、あるいは別の所有者のものなのかどうかは、残念ながら聞き漏らした。その点を明確にしたいと思った時には既に雅三氏は死亡されていた。

 最後に、小田島尚三氏が「あこがれ」出版に出した資金は、二百円、二百五十円、三百円と、論者によって様々であるが、私は松本政治氏が尚三氏に聞いた時点が最も古いので、尚三氏の記憶が正確だと考えて二百円を採用させてもらった。

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