啄木を支援した人々    井上 信興    
3.啄木と小田島尚三(2)
 啄木は詩に変換して以後、熱心に作詩をつづけていたから、作品も五十篇ほどになっていた。この状況になれば、詩集を作りたいと思うのは啄木ばかりではない。彼が詩集発刊を目的に上京したのは、弱冠十九歳の明治三十七年十月三十一日のことであった。

 その時すべての準備が整ってはいなかった。十分な資金の準備もないまま、とにかく上京して有力なコネをみつければ何とかなるだろう、といった安易な考えでしかなかったと思う。

 この時の東京生活も不明な点が多いが、その中で、福場幸一氏の書簡がその一端を明らかにしている。この書簡はある啄木研究者からの質問に返信として書かれたものである。啄木は短期間で、下宿を数回移り住んでいたが、牛込区砂土原町の下宿で、襖を隔てて啄木と福場氏は隣同士になって交際するようになった。福場氏は次のように述べている。

 「啄木氏は当時十九歳、眉目清秀、貴公子然たる上品な人に有之、しかもよほど貧乏詩人にて、持ち物など見当たらず、『言海』一部と原稿用紙くらいのものと思はれ候。」また「同宿中『落櫛』という詩が出来たときは、『福場君』と同氏の部屋に小生を呼び寄せ、『こんなものが出来たから聞いてくれと、』自ら立ちて、『磯回の夕のさまよひに』『砂に落ちたる牡蠣の殻』といふ時には、かがんで牡蠣の殻を拾ふ風をし、『拾ふて聞けば』でそれを耳にあてるなど、その一篇を終わるまで口ずさみ、八畳の部屋を幾回かまはられ候。」という。

 「落櫛」という詩は明治三十八年二月十八日の作であるから、彼が上京して約四ヶ月ほど経過した夜の一齣だが、啄木の姿態が目に浮かぶようで、なかなか興味深い記述である。

 さらにもう少し必要な部分を引くと、「終始貧乏で、下宿代が払えず、主人から頻りに催促せられ、追放されそうなので、小生が保証人となって一札差し入れたことも有之候。時々在宅の時は、十銭、二十戦貸せといはれ、鉄幹の所へ行くとか、有明のところへ行くとかで、電車賃を貸せとよく言われたもので、しかし返してもらったことは一度も無之候。」と述べている。それにしても啄木の周囲には常に支援してくれる善意の人がいたものだと思う。

 福場幸一氏は明治十三年広島県双三郡吉舎四四八番地で生まれ、啄木より六歳の年長であった。教員資格取得のために上京し、歴史地理伝習所に入学。同所終了後に啄木と同宿になったのである。翌年九月帰郷、私立日章館中学女子部の教員を拝命した。後には同校校長となり昭和二十四年一月退職したが、昭和二十七年以降各地で啄木について講演し啄木の普及に勤め、昭和三十一年七十七歳で病没した。
詩集「あこがれ」の表紙
筆者提供

 啄木は福場氏から電車賃を借りて著名な作家を訪問して何とか出版のコネを得ようとしたが、全ては徒労に終わった。収入のないまま月日は容赦なく流れてゆく、こうなっては超大物にすがるしかないと考えたのであろう。駄目でもともとといった思いで、時の東京市長尾崎行雄氏を訪問したのである。無論面識が有ったわけでもなく、紹介状さえ持たず、あるのは詩の原稿だけである。啄木というのは相手が誰であろうと、恐れを知らぬというか、非常識というのか、たかが出版社を紹介してもらうために、面識もない市長を訪問するような若者はまずないであろう。訪問に先立ち詩集「あこがれ」の扉に、「この書を尾崎行雄氏に献じ、併せて遥かに故郷の山河に捧ぐ」と、わざわざ尾崎氏の名前を入れたのは、相手の気を引き、親近感を持たせることで好意的な状況を引き出せるのではないか、といった啄木の計算があったとも考えられる。

 後に市長は「啄木の嘲笑」という文章で、「取次の者を通じて渡された名刺は確か『石川啄木』とあるだけ、住所も肩書きもなかったと思います。ドアを排して来たのは、まだこんな子供です。私の印象としては、青白い栄養不良少年ですね。『御用は』と尋ねると、テーブルの上へ風呂敷をひろげ、中から大分厚い原稿を取り出し、これを世に問うてみたいと思うが、どこか出叛屋に先生から紹介して頂きたいといふ。」尾崎氏にしてみれば、市政に関する問題でも持ってきたのかと、思っていただろうが、まったく個人的な問題なので、多少腹立たしく感じたのであろう。「一体勉強盛りの若い者が、そんなものにばかり熱中しているのはよろしくない。詩歌などは男子一生の仕事ではあるまい。もっと実用になることを勉強したがよかろう。という様な事を言って叱った。」とあり、尾崎氏から見れば当然の苦言であろう。

 こうして啄木の考えはすべて失敗に終わった。さすがの彼もここに至ってかなりの危機感を抱いたと思う。その頃、ふと彼の頭をよぎったのは、盛岡高等小学校時代の学友、小田島真平であった。彼の長兄が確か出版社に勤務していると聞いていたので真平に連絡してみることにした。こうなっては藁をも掴むといった心境だったに相違ない。真平は啄木の要求を入れ、長兄ではなく、次兄の小田島尚三氏に連絡をとってくれた。おそらく「啄木が詩集出版について相談してきているが出来れば協力してやってほしい、彼は将来性豊かな詩人だから。」というような文言であったと思う。

 ここで私が疑問を持った点について述べてみたい。その一点は、「啄木が上京する際、小田島の長兄嘉兵衛氏宛の紹介状を持って行った。という記述をしている論者を二、三目にしているが、その事実はないと思う。
「小田島書房」所在地図
Wikipediaより

 何故ならば、もし紹介状を持っていたのなら真っ先に長兄嘉兵衛氏の勤務する出版社「大学堂」を訪問したはずである。だが啄木は数ヶ月もコネ探しに歩き回り、最後には尾崎市長まで訪問している。そうした必要はまったくなかったはずである。

 たとえば岩城之徳「啄木評伝」には次のように書かれている。「まだ二十歳になったばかりの啄木が詩集を出版できたのは、盛岡高等科学校時代の級友小田島真平兄弟の好意によるもので、真平の紹介状を持って上京した啄木は出版屋「大学堂」に勤務する真平の長兄小田島嘉兵衛氏を訪ねて詩集刊行の依頼をした。そのころ啄木の詩集など出版しても売れる見込みはなかったが、せっかく弟の紹介ではるばる上京してきた同郷の詩人のために嘉兵衛氏は人肌脱ぐことになり出版を承知した。」と述べられているが、これは岩城氏が推測で書かれたものであろう。

 私が紹介状の件で疑問をもったので、小田島家の遺族に照会したところ、当時長兄嘉兵衛氏は実家とは家庭の事情で断絶していたとのことで、紹介状などは出していない。という返事であった。従って、三男の小田島真平は長男ではなく次男の小田島尚三氏に連絡した、ということで疑問も解消した。東京に出ていた。長男と次男はお互いに交遊があったようで、出版の知識がない尚三氏は、早速長男に相談した。彼の意見は次のようなものであった。
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