啄木を支援した人々    井上 信興    
2.啄木と宮崎郁雨 (5)
 それは「兄啄木のことども」という文章の最終回に書かれた、「最後の痛手」というのが問題の記事である。

 必要な部分を引いてみょう。「それは啄木の妻節子さんの反逆です。それは妻へ宛てたさる親友の手紙です。妻が留守であったために、封を切って見たのです。中から出て来たのは若干円の小為替証書と巻紙にしたためた手紙でありました。嗚呼啄木はその手紙を読まねば良かった。」「すべてのことがわかったのです。妻は他に愛人を有していました。」

 この記事は熊本という地方新聞に発表されたものだから、当時はあまり人々の注意を引かなかったようだが、昭和に入って、二十二年四月十三日丸亀市で三十五年祭があり、啄木を語る座談会で、啄木の妹光子の夫、三浦精一氏は、「その不愉快なことは啄木の妻節子の貞操問題です。節子は啄木の妻でありながら、実は愛人があり、しかもただならぬ関係にまで入っていた。」といった内容で、この衝撃的談話は全国紙の「毎日新聞」に掲載されたことから世の注目を集めた。
啄木と節子の結婚写真
筆者提供

 だが私が少々疑問に思うのは、夫三浦精一氏は啄木とはまったく関係のない人物だから、啄木に関する事項に詳しいはずはない。従って彼の談話は、すべて妻光子が伝授して夫に発表させたものと考えられる。

 その一年後光子は「悲しき兄啄木」という著書を発刊して、この「不愉快な事件」について具体的に述べている。 その中で郁雨の手紙には「貴女ひとりの写真を撮って送ってくれ」といったことが書いてあったという。

 郁雨氏と親交のある阿部たつお氏は、光子の記述に疑問を持ち、昭和四十年三月、丸谷喜市氏と函館商業学校での後輩である行友政一氏に依頼してこの問題についての質問状を出した。

 その返信は「不貞というような不潔な問題は存在しなかった。不貞があったかの如く疑う人があることは、云いかえれば啄木夫妻とその周辺の名誉を不当に傷つけるものである。」「小生としては啄木夫妻の名誉のために折をみて一文を草したく思っております。」しかしそうした文章は三年たっても発表されなかった。

 しびれを切らした阿部氏は、直接丸谷喜市氏にこの件について解答を求める書簡を送った。しかしその回答もなかなか来なかったが、約一ヶ月後、届いたのは「覚書」なる文書であった。

 必要な部分だけ引く、「九堅町を訪ねたのは九月中旬である。啄木が『ちょっと一緒に来てくれないか』と言うのでついて行ったが入ったのは近くの蕎麦屋であった。『これは君にだけに話すのだから、そのつもりで聞いてくれた給へ。』と言って、一通の封書を私の前に置いた。見ると、それは節子さんに宛てたもので、封書の裏側には『美瑛の野より』とあり、次行に数字三字の未知の氏名が書いてあった。だがその美しく特色ある筆跡よりして、筆者が宮崎郁雨であることは私には一見して明らかであった。」「宮崎さんが私と一緒に死にたい。」啄木はそのような文句が書かれていたという。「これで問題の核心がわかったので、それ以上に手紙を読む必要はないと私は思った。

 一つには、他人の手紙はなるべく読まないということが、私の方針だったからである。」この内容では、啄木が話したことだけを述べていて、郁雨氏の手紙については何の解答にもならない。

 大体啄木から手紙を読んでみてくれ、と言われて読まない人はまず居ないと思う。「他人の手紙はなるべく読まないのが私の方針だ。」と、丸谷氏が書いたのは、もし読んだと書けば、「宮崎さんが私と一緒に死にたい」とか「貴女ひとりで写した写真をおくってくれ」といったことが、実際に書かれていたかどうかに強い関心を持っていた阿部氏だから、この点についての質問がくるのは必至だと考え、読まなかったことにした方が無難だと思ったからであろう。彼はまたこの返信に一か月を要している。

 これは光子の著書に丸谷氏は「啄木と私」という文章をのせている関係上、光子の記述は事実ではない、というようなことを書けば光子の立場がなくなることから、私の推定では、どう書いたらいいかを光子に相談したものと考えられる。おそらく光子の懇願により彼は心ならずも、光子側の立場をとった。丸谷氏の本心と言うのは、前記した行友政一氏への返信内容で明らかであるから、それ以外の記述は本心ではない。

 したがって光子、丸谷両者の記述は信用する必要はない。私が納得できないのは丸谷氏が阿部氏へ送った「覚書」は阿部氏個人に対する返信であるから、当然私信のはずである。しか丸谷氏は一年後に「大阪啄木の会」の機関紙「あしあと」に一部訂正して「覚書」を発表した。「およそ他人の手紙は読まないと云うことが私の方針であった」という部分を消し、「私はざっと愚目するにとどめた」と、訂正しているのである。この記述は重要である。阿部氏には読まなかった理由まで書いているのに、ここではざっとだが読んだと言う。

 このように訂正したことは、手紙を実際には読んでいるということである。したがって、「一人で写した写真を送れ」とか「宮崎さんが私と一緒に死にたい」などといった文句が書かれていたかどうか、を当然知っていたものと考えられる。この事実を明かせば、光子の立場は根底から崩壊するわけだから、私は光子の懇願によって心ならずも光子側に立ったものと推測している。

 丸谷氏は商業学校時代の同級生であるから、宮崎氏の性格などは熟知しているはずで、そんな馬鹿げたことをするような人間には到底考えられないので、行友氏への問い合わせには彼の真実を述べているのだ、阿部氏は郁雨氏の友人であり、郁雨氏とは親しく接していた、彼の人間性は十分認識していたから、疑問のある記述の正否を確かめようと思ったのであろう。

 光子、丸谷両氏の証言が全く信頼出来ないのだから、ここで阿部氏が当事者である郁雨氏に求めた証言を出してみよう。
「宮崎郁雨」函館の実家
筆者提供

 「その頃野営演習で、七週間ばかり召集されて美瑛の野に行っていて其処から節子さんに手紙を出したことはあるが、それは節子さんから、病気が悪いと言ってきたのに対する返事である。」「病気がよくなければ一日も早く実家の堀合へ帰って養生するのが一番だと、すすめてやった。」要するに、節子の手紙に適切な返事を書いただけの問題で、だいいち、責任ある地位で、演習に参加している真面目な彼がそうした環境の中で、ふしだらな手紙など書く気になるものかどうか、誰が考えてもありえない話しであろう。

 啄木としては、自分の家庭の問題にまで干渉する郁雨氏に対して不快感を持ち、以後交遊を断った。当時の石川一家は、啄木、母、また節子までが病気がちで、節子が郁雨氏に支援を求める手紙を出たのも当然で、死への誘惑に取り付かれていたとしても不思議ではない。啄木が丸谷氏に話した「節子と一緒に死にたい」と書いたのは節子で、郁雨氏がそんなことを書くはずはない。
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