啄木を支援した人々    井上 信興    
2.啄木と宮崎郁雨 (1)
 郁雨氏は明治十八年四月五日、新潟県北蒲原郡荒川村字荒川で、父竹四郎、母クリ、女子三人の後に長男として郁雨は出生した。本名は大四郎といった。

 宮崎家には、宝暦年間の過去帳も残っているというから、地元では旧家としてよく知られた家系であった。だが祖父の代に次第に傾き、父竹四郎氏の懸命の努力にもかかわらず、遂に再興は叶わなかった。母と郁雨ら四人の子を母の実家に預けて、竹四郎氏は再起を図るべく、明治二十年頃に単身函館に渡った。三年後に一家は父に連れられ、故郷を捨てて函館に移った。父は最初宝町に小さな事業を始めたが間もなく失敗し、止むを得ず、慣れぬ身で出稼ぎの仕事に従事して家族を養っていた。
「宮崎郁雨」の函館の実家
筆者提供

 こうした宮崎家に運が向いてきたのは明治二十七年四月、相生町四十三番地に「金久三年味噌」の看板を掲げ、味噌製造業を開始し、事業は進展の一途をたどった。事業の成功に伴い、店舗を広げる必要から、明治三十一年頃、東川町、後の旭町の広い店舗に移った。

 郁雨氏は公立宝尋常小学校卒業後、明治三十三年四月、北海道庁立函館商業学校に進学し、同級に啄木と後に親しい関係を持つ丸谷喜市氏がいた。三十八年春卒業し、父にすすめられて、数ヶ月ほど、物産問屋「近藤商店」に見習いとして住み込む。仕事を見習うのは無論だが、父がこの店の娘を気に入っていたらしいと、郁雨氏は後に阿部たつを氏に語っているが、父は結婚相手として考えていたのであろう。

 一方、啄木は故郷岩手県の渋民村で渋民小学校の代用教員であったが、児童を巻き込み、理由にもならぬ理由で校長のボイコットをたくらんでストライキを決行し、処分され免職になった。当然渋民村を去ることになるが、忽ち転住する所はなかった。

 啄木とすれば、何処でもいいということはなく、文学的土壌のある場所を考えていたと思う。函館の同人雑誌に三篇の詩を送っただけの関係だったが、依頼者だった同人松岡路堂氏に、函館へ移住したい希望のあることを打診した結果、歓迎するという返信に啄木は函館への移住を決定した。

 啄木が函館を選んだことに私は最高の幸運二点を手に入れることが出来たと思うが、その理由は漸次述べることにする。

 啄木が函館へ着いたのは明治四十年春五月の五日であった。函館には桟橋が二箇所あり、啄木と妹光子は鉄道桟橋に上陸した。光子は小樽の姉夫婦の山本家に向かうことから、鉄道桟橋が都合よかったのだろう。

 五日に啄木が着く、という連絡を受けていた同人達は東浜桟橋に集っていた。その時の様子は同人岩崎正氏の文章に詳しい。「啄木の話が出たが、誰も啄木に面識のある人はいなかった。写真で知っているのを頼りに、桟橋に登ってくるのを一人逃さず皆で見張っていた。待っても待ってもそれらしい人は来なかった。」

 彼らは解散して社に戻ってみると、車夫がもってきたという啄木の手紙が置いてあった。「駅前の恵比寿屋にいるから来てくれ」とあるが広島屋が正しい。「鉄道馬車の遅いのがもどかしく途中から降りて走っていった。石川君は肩の角張った小柄の人であった。」その夜啄木が着いたという知らせを受けた同人達は松岡氏の宿舎に多数集まった。啄木を囲んで夜の深けるまで雑談に興じたのであろう。
「澤田信太郎」小樽日報編集長
筆者提供

 啄木としては、持参した金も尽きていたので、収入を考える必要に迫られていたが、同人の一人澤田信太郎氏が仕事を世話してくれた。澤田氏は「函館商業会議所」の主任書記であったから、そうした仕事を与えることが出来たのであろう。仕事は「選挙有権者台帳の作成」で、市内の商業者の納税額を写す作業だという、啄木は会議所職員の案内で「函館税務署」に出向いた。その日啄木は昼食も抜いて仕事に打ち込み、やく三百枚を処理した。日給六十銭のアルバイトも二十日ほどで終わった。郁雨氏の計算では、休日を除き、正味十七日で彼が手にしたのは十円二十銭だという。

 同人達は毎日のように啄木の周囲に集り、文学論を戦わせ、最後には恋の話に落ちるのが常であった。同人たちは短歌を主体にしていて、「明星」にも歌を出しているほどだからかなり程度は高い。啄木の批評によれば、同人吉野白村氏について「その歌また一家の風格あり」といい、岩崎白鯨氏には「その歌最も情熱に富む」とそれぞれに評価している。したがって同人たちは時々歌会を開いた。啄木は当時詩作に没頭していた時で、歌は二年ものブランクがあったのでなかなか出来なかったようだが、その後吉野、岩崎両氏から刺激を受けて歌を詠むようになった。

 啄木は遊んでいるばかりいたのでは収入はない。そうした時、同人吉野白村氏が函館区立弥生尋常小学校に代用教員の口があることを伝えてきた。吉野氏は当時東川尋常小学校の教員であったからその情報が得られたのであろう。啄木は故郷で代用教員の経験があったから慣れた仕事でもあり、即座に受けることにした。六月十二日から出勤。この小学校は職員が校長以下十五名でその内男子は七名で女子は八名であった。その中に別途詳述する橘智恵子もいたのである。生徒は千百余名という函館での名門校であった。月給は十二円で渋民の時より四円高かったから、妻子を呼びたいと彼は思った。

 自我が強く、身勝手な啄木は間もなく問題を起こした。会議で自分の意見が入れられなかったというだけのことで、学校を無断欠勤したのである。就職して間もなく、こうした態度では、とうてい勤務者として勤まるわけはない。まして正規の教員資格を持たない代用教員という身分は、教育学の勉強をしたわけでもなく、いわば素人である。常識のある者ならば、主席者の話を聞くだけに止めるべきものであろう。自ら意見を述べて、それが入れられなかったからといって無断欠席するような者はいないと思う。

 郁雨氏はその話を聞き、「吉野君がせっかく啄木の為に用意してくれた勤務先をつまらぬことで無断欠勤するなどは、吉野君の厚意に叛くことだ」といって啄木という人間に少々不快の感情を表にしている。

 七月七日、節子は京子を連れて函館に着いた。その日は日曜日で好都合だったから同人達は打ち揃って東浜桟橋に迎えに出ていた。郁雨氏の著書によると、「私達はこれまで散々彼女との恋愛話を聞かされていたから賛嘆と羨望と興味との対象として、心ひそかかに彼女の容姿や性情をそれぞれの胸裏に映像していたのであった。」おそらく啄木は節子について彼一流の話術で美化して語っていただろうから、彼らが興味を持って見に集ったのは理解できる。そして郁雨氏の見た節子の印象は次のようなものであった。「京ちゃんをおんぶしてはいたが、背格好のすらりとした、程々に肉付きの良い姿態と、紫がかったカスリの着物とが、似付いているように私の目には映った。」とのべている。
 
もくじに戻る