啄木を支援した人々    井上 信興    
1.啄木と金田一京助 (3)
 彼は即座に札幌行きを決断し、九月十三日に函館を発った。

 日記に「函館の灯火ようやく見えずなる時、言ひしれぬ涙催しぬ。」と記し、せっかく安定した生活を得たと思ったのも、僅かに五ヶ月足らずで再び流浪の旅に出る彼の心中は同情に値する。

 九月十六日「北門新報社」に初出勤した。午後二時から八時までの勤務で十五円であった。この社の記者小国露堂氏の世話で入社できたのだが、彼は社会主義者で啄木とはすぐに意気投合するといった有様であった、日記に「夜小国君来り向井君の部屋にて大いに論ず。小国君のいふ所は見識あり、雅量り、我が党の士なり。」とある。

 その後露堂氏はこんど小樽に新しい新聞が発行されるがどうか、という話を持ってきた。これには野口雨情氏も参加するという。小樽なら家族もいるし、新規に発行する新聞というのも魅力的なので啄木も参加することにした。

澤田「小樽日報」編集長
筆者提供
 新発刊の「小樽日報」に入社したのはいいが、啄木の身勝手な行動から事務長とトラブルになり結局自ら退社していった。澤田編集長の計らいで、社長白石義郎氏の兼務する「釧路新聞」に転職することが出来た。しかしこの釧路も長続きはしなかったのである。ここで初めて身分不相応な芸者遊びを覚えてついのめり込み、かなりの借金を抱え込んだ。尋常の手段で返済できる額ではなかった。こうなると彼の常套手段で、四月五日彼は社にも挨拶せず、借金を残したまま七十六日という短期間で釧路を船で去り、再び帰ることはなかった。

 この船は宮古経由で午後九時に函館に入港した。この夜は親しい岩崎正氏宅へ泊めてもらい、翌日宮崎郁雨氏を岩崎氏と共に訪問した。啄木は上京したい希望があったが、言い出しかねていた。郁雨氏は「上京するつもりがあるなら家族の面倒は見る」と言ってくれたのに力を得て啄木は小樽に残している家族を郁雨氏に託し、四月二十四日いよいよ上京する日が来た。彼は海路を選び三河丸で函館を離れた。翌朝萩の浜に寄港し翌日は横浜に入港する。下船して午後二時の汽車で東京に着く。与謝野鉄幹氏の書簡で、「上京のおりは、さしずめ拙宅へおいで下されたく」とあることから啄木はその指示に従って一週間ほど与謝野家の世話になった。

 小説を書くという目的があるから、何処か下宿しなければならず、中学時代から親しくしてもらった先輩の金田一京助氏の下宿を訪問した。彼は本郷菊坂町の赤心館という下宿にいた。金田一氏は東大を出て以後もアイヌ語研究を続けながら海城中学の教師として勤務していた。彼は啄木なら話し相手としても楽しいと思ったのだろう。小部屋の空きがあるというので早速移ることにした。啄木というのは何時も着の身着のままという状態であるから、移るのは簡単なのだ。机と椅子まで金田一氏が用意してくれた。

 啄木は日記に「金田一といふ人は、世界に唯一人の人である。かくも優しい情を持った人、かくも清らかな情を持った人、かくもなつかしい人、決して世に二人とあるべきで無い。若し予が女であったら、きっとこの人を恋したであろうと考えた。」これは啄木でなくとも、金田一氏を知る人は同様の感想を持つだろう。

 それは、これから啄木との共同生活によって明らかになると思う。啄木は落ち着いて仕事の出来る環境が出来て、懸命に創作活動に打ち込んでいた。「病院の窓」という九十一枚の小説を九日で書き上げ、金田一氏に読んでもらい、彼は「中央公論」へ持って行ってやるという。だが結果は残念ながら不採用となり一週間後には返却された。しかしこのままでは金にはならないので。有力者に頼むしかないと考え、この原稿を持って森鴎外氏を訪問したが留守だったので置いて帰った。
森鴎外
Wikipediaより

 その帰路啄木は日記に「暗い道を歩いていて悲しくなった。久しぶりで歩いたので、フラフラする。目が引っ込むようだ。俺はこの位真面目に書いていて、それで煙草代もない。原稿用紙も尽きた。下宿代も無論払えぬ。」という悲痛な状況にあった。

 吉報を待ちかねていた鴎外氏からの葉書が届いた。「春陽堂」が「病院の窓」を買い取ってくれるが、原稿料は雑誌掲載の後、ということで直ぐに金になる話ではなかった。下宿からは再三支払いを催促され、啄木の落胆した姿を見かねた金田一氏は自分の衣服でで金をつくり十二円を貸してくれた。「病院の窓」が金になったのはそれから半年も過ぎた頃であった。

 二十二円七十五銭を手にしたが、原稿が活字になることはなかった。「春陽堂」としては使えないが鴎外氏の依頼であるからむげに断るわけにもゆかず、一応顔をたてたということであろう。

 当時の啄木を金田一氏は「菊坂町時代の思い出から」で述べている。以下の引用文は全てこの文章からである。「二階の端の部屋へ私の椅子とテーブルを持って引越したのであったが、夜更かしはするし、朝は飯が全部済んでから、のそのそ起きて来る。仕舞には夜起きていて、朝が明けてから寝るので大抵昼飯を朝飯といっしょにする、というようなここの宿では殆ど類のない不規則な下宿人だった。

 それに何処へ勤めるというのではなし、ぶらりぶらりしていて、勘定が出来ないというのであったから、大分管理者の主婦をいらだたせたものだった。その上、女が訪ねて来るようになったのがさらに悪くした。」こんな下宿人であったから、下宿料の取り立ては厳しくなった。啄木には定収入はないのだから、彼は精神的にかなりの打撃を受けていた。

金田一京助
Wikipediaより
 金田一氏は注意するでもなく啄木の好きなようにさせていた。しかしこのままでは彼も仕事が手につかないだろうとの思いから下宿を出る決意を固め、同じ文章の中で、「その日受け取ってきた俸給三十五円で当月分は石川君の方を完済して私の方を十円引っ掛けて、『少し都合があるから、あとは待って貰いたい』と女中に言って勘定をした。女中は引き換えしいて来て、『誠に申しかねますがどうかあと五円お入れ下さい。』と言った。これまで金田一はきちんきちんと宿代を払ってきて、誠実な人柄も信頼されていたから、当然了承されるものと信じていた。この上五円を渡したら残る金は五円しかない。

 温厚な金田一氏もこう出られたのでは興奮して、「では明日全部入れます」と言い、「村松古書店」に明日来るように連絡した。金田一氏は中学時代から「明星」の社友で大量の文学書を所有していた。これを全部処分し、荷車二台分もあり四十円を得た。管理者夫妻はおろおろしていたようだが、金田一氏は残りの十円を渡し啄木の帰りを待った。

 啄木は夜遅く帰ったようなので、明日話すことにした。「この機会をもって、いい加減に私のはかない文学青年の生活を清算しようと決心したのだから、すっきりした気持ちになれると思った。」                                                       
 
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