高島靖男のインド日記
1月12日(火) カレー伝説(2)
 今回は日本人が「カレー」をどのように知り、今のような日本食としての「カレー」になったのか簡単にご紹介したい。以下の記述は実際に自分が体験したものでないので間違いがあるかもしれない。あらかじめお断りしておきたい。
  まず、「カレー」という言葉を誰が最初に見つけたかということだが、あの福澤諭吉なのである。1860年に幕府は日米修好通商条約の批准書交換のために遣米使節をワシントンに送ることとなった。その際に軍艦咸臨丸を米国に出航させることになり、その一員と福澤は随行した。彼はサンフランシスコで一冊の辞書に出会った。「華英通語」という本である。福澤は日本に持ち帰り、日本人用に日本語訳をつけ、「増訂華英通語<注>」という冊子を刊行した。この中で「カレー」を「Curry・コルリ」と紹介している。これが文字で書かれた日本最古のカレー資料である。しかし諭吉が実際に「カレー」を見たことがあったかは不明である。

  では、実際に「カレー」を食した人はだれか?
山川健次郎
(武蔵学園記念堂提供)
であるが明治時代の物理学者「山川健次郎<注2>」と言われている。彼は16歳の時(1870年)、会津藩から選ばれて国費留学生としてアメリカに渡った。日本からアメリカにわたる船の食堂で初めて「カレー」と出会ったのである。しかし、「カレーライス」を選んだのはそれが唯一米を使った料理であったからで、カレールーはすべて残したという。「どうしても食う気になれなかった」という記録が残っている。

<注2>東京帝国大学で物理学を教える。東京帝国大学、京都帝国大学、九州帝国大学の総長、私立明治専門学校(現九州工業大学)の総裁、武蔵高等学校 (旧制)(現武蔵大学)の校長などを務める。
  男爵。少年期に白虎隊に入隊していたことでも有名。

  さて「カレー」が日本の文化として定着したのはいつ頃なのであろうか。現在わかっているかぎりでは明治5年(1872)まで遡る。日本で初めての「カレー」のレシピは同年に発売された「西洋料理通<注3>」(仮名垣魯文著)と「西洋料理指南<注4>」(敬学堂主人著)となっているが実は高級官僚ではないかとの話もある)の2冊の本に記載されている。  この両書の共通の特徴は、カレー粉で味付けし、小麦粉でとろみを出すことと、野菜はネギのみを使用し、タマネギ、ニンジン、ジャガイモ等は使われていないことである。
昭和6年のC&Bカレー広告
肉については「西洋料理通」では牛、鳥、羊を、「西洋料理指南」では鶏、エビ、タイ、カキ、赤カエルを使っている。
  カレー粉と小麦粉が使われていることから、「カレー」がインド料理としてではなく、西洋料理として日本に伝わったことが分かる。この小麦粉を使って「とろみ」を出す方法にはイギリスの料理本の影響が感じられる。この時代に「C&Bのカレー粉」と同時にイギリスの調理法も入ってきたのである。また野菜はネギしか使われていないが、現在の「カレー」では定番のタマネギ、ニンジン、ジャガイモなどは、当時の日本ではあまり栽培されていなかったこともあり、まだカレーの具としては用いられてはいなかったようだ。
昭和初めのハチ食品の広告
(ハチ食品提供)

そして、「カレー」が初めて食堂のメニューに登場したのは、1877年(明治10年)のことだ。東京の「風月堂」である。当時、「もりそば」が一銭の時代だったが、「カレーライス」は八銭と高価だった。つまり、「カレー」は高級料理だったのだ。更に「カレー粉」が日本に誕生するのはそれから約30年かかっている。1903年(明治36年)に、大阪道修町の薬種問屋「今村弥いまむらや」(現ハチ食品)が、初めて日本でカレー粉を製造販売した。「洋風どんぶりうちでも作れまっせ!」これがキャッチフレーズであった。
  さて最後にインドにかかわる、東京「中村屋」の「純インド式カリー」の話である。
中村屋カリー、インドカリー中村屋
 この物語は「中村屋」創業者の相馬愛蔵・黒光という夫婦の物語でもある。夫妻は、明治34年(1901年)9月に東京本郷に上京、何か商売をと考え、”パン屋”を譲り受け、同じ年の12月30日、本郷東大正門前(本郷春木町)にパン屋「中村屋」を創業した。明治37年(1904年)には日本初の”クリームパン”を発売し、大好評となった。明治40年(1907年)店の規模を拡大する為、新宿の六間通り(現・新宿通り)に出店。現在の「中村屋」の位置とあまり変わらない所に新築された三軒長屋(間口2間)の貸家を2軒分借りて新しいお店をスタートさせた。そして、明治42年(1909年)、2軒隣の土地を購入した。それが現在の店舗のある所である。
  昭和2年に「喫茶部」を造り
、後に伝説となる”純インド式カリーライス”を売り出した。”純インド式カリーライス”(中村屋はカレーでは無く、カリーという言葉にこだわった)の要因となったのは、インド独立運動の際、大正4年に日本に亡命してきたラス・ビハリ・ボース氏<注5>を中村屋の裏庭のアトリエに4ヶ月かくまった事に端を発している。
ボース氏夫妻
ボース氏は感謝の気持ちから”純インド風カリー”を夫妻に教えた。昭和の始め、喫茶部には”インドの間”があったそうだ。後にボース氏は夫妻の娘の俊子さんと恋に落ち結婚する。俊子さんは残念ながら28歳で永眠している。
この”純インド式カリー”は、本店2F”ルパ”で食べれるが、現在ではレトルトにもなり手軽に食べる事が出来るようになった。
  「カレー」は日本人には馴染みが深い料理であるが意外とルーツを知っている人は多くないようだ。インドに来て「カレー」を食べるにつけ、日本のものとは全く違う、と再認識する。昨年5月来られた友人夫妻・家内はインドの「カリー」はお気に召さなかったようである。確かに「カリー」は「カレー」であるが「似て非なるもの」と考えた方がよさそうである。このページをご覧になった方は今日、インド「カリー」を試されてはいかがでしょうか?新しい発見があるかもしれません!?
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