高島克規のインド日記
8月16日(日) ガンディー博物館

  ムンバイで忘れてはならない場所がある。「ガンディー<注1>博物館」である。現地の表現では「マニ・バワンMani Bhavan」という。場所はグラント・ロード駅から徒歩10分。と解説書には書いてある。これを鵜呑みにして無謀にも私はある日曜日一人で出かけた。
地図(写真をクリックすると拡大) 鉄道路線図(写真をクリックすると拡大)

  グラント・ロード駅は私の住んでいるボリバリ駅からローカル線で市内へ約45分ほど行った駅である。グラント・ロード駅までは順調であった。ところがインド(ムンバイ)で困るのは道路表示が英語でないこと、道行く人が英語を話さないことである。駅を降りた瞬間から困ったことになった。「マニ・バワン」と、言いながら道行く人に聞いたが取り合ってくれない。仕方がないので大きな通りに出てみた。日本であれば大きな通りには「xxx通り」とか表示があるのだが、それらしきものは見当たらないのである。しょうがないので交番はないかと探したが、これもなかなか見当たらない。本当に途方にくれてしまった。

  ふと眼をやると通りの向い側に大きなオフィスビルがあった。警備員が数人配備されている。ひょっとすると彼らは英語がわかるかもしれない?そんな淡い期待を抱いて彼らのところに行った。「マニ・バワン」と、言いながら地図を見せた。じろじろ人の顔を見て「中国人か?」と聞いてきた。インド訛はあるが英語を話すではないか!「日本人だ」と答えると、「日本人に会うのは初めてだ」と言って、仲間を呼んでくれた。地図を見ながら、彼らは親切に道順を教えてくれたのである。インドで道に迷ったら、大きなビルの警備員に聞くといい、これを今回は学んだ。

  言われた通りに歩いたが10分たってもそれらしき建物は見えてこない。観光ガイドブックほど当てにならないものはない。観光ガイドブックの筆者は自分の足で確かめていないに違いない。やっと地図に表示されている公園が見えてきた。しかし「マニ・バワン」は見えてこない。公園の近くで高校生と思われる女子が三人いた。ダメもとで「英語は話すか」と聞いてみた。余談であるが日本でよく教える「Can you speak English英語は話せますか?と言わない方がいい。これは相手の能力を問うことになるからである。では何と言うかであるが「Do you speak English英語は話すか?」と聞けば、英語を話す、話さないは本人の自由というニュアンスがあるので失礼にならない。すかさず「Yes we doええ話します」と返事があった。「この道をまっすぐ2,3分」と教えてくれた。また教訓である。インドでは高校生、大学生と思われる青年・少女に道を尋ねれば英語で回答が得られる(勿論例外もあるが・・・・)。
  やっと目指す「マニ・バワン」(ガンディー博物館)に到着した。1917~1934年にかけて、マハトマ・ガンジーがボンベイ滞在中に暮らした家が、そのままが残されている。周りはヨーロッパの街並みと見まちがえるような閑静な住宅街だ。大きな看板も出ている訳でないので非常に見つけるのに苦労する。中に入った。入場は無料である。
  ただし入口に箱が置いてあるので気持ちばかりの入場料を置いてくることになる。私が20ルピーを入れると、管理人と思える人が大きく「Thank you very much」と言って頭を下げた。他の美術館、博物館のような横柄な態度はそこにはない。とてもすがすがしい気持ちになる。
「マニ・バワン」(ガンディー博物館)
写真をクリックするとスライドショウ
  ガンジーはこの場所からインド独立運動を始め、ここで逮捕された。3階からなる内部はミュージアムになっている。まず一階にある書斎へ。
  ここは図書室である。ファンが静かに回り、とても涼しく、そして本のニオイが充満している。ガンジーは、ここで「本」を読んでいたのだ。
博物館図書室(写真をクリックするとスライドショウ)

  二階はパネルや写真が展示されている。いろいろな人との交流があったことがわかる。チャップリンと交流があったことも写真で知った。

チャップリンとガンディー ネール首相とガンディー

博物館展示室(写真をクリックするとスライドショウ) 博物館ディスプレイ
(写真をクリックするとスライドショウ)

  ガンディーが語った言葉からの引用が展示されているのでご紹介したい。

「私は失望したとき、歴史全体を通していつも真理と愛が勝利をしたことを思い出す。暴君や殺戮者はそのときには無敵に見えるが、最終的には滅びてしまう。どんなときも、私はそれを思うのだ」。
「狂気染みた破壊が、全体主義の名のもとで行われるか、自由と民主主義の聖なる名のもので行われるかということが、死にゆく人々や孤児や浮浪者に対して、一体何の違いをもたらすのであろうか」。

「"目には目を"は全世界を盲目にしているのだ」。

「私には人に命を捧げる覚悟がある。しかし、人の命を奪う覚悟をさせる大義はどこにもない」。

 三階には彼が実際に寝起きした部屋が今もそのままに残されている。有名な「インドの糸車<注2>を廻すガンディー」はここから生まれたのである。また、ガンジーの生涯を紹介した人形のディスプレイがあり、ボンベイまでの大行進(塩の大行進)などを垣間見て非常に興味深い。是非、ムンバイを訪ずれる機会があれば寄っていただきたい場所である。

居間と糸車

 <注2>
 第一次世界大戦後は、独立運動をするインド国民会議に加わり、不服従運動で世界的に知られるようになる。またイギリス製品の綿製品を着用せず、伝統的な手法によるインドの綿製品を着用することを呼びかけるなど、不買運動を行った。「インドの糸車を廻すガンディー」はこの歴史的背景による。

  「マニ・バワン」からの帰途、公園に寄った。ベンチに座り、ひょっとするとガンディーもこのベンチに座ったかもしれないな、と思った。今ガンジーが生きていたらどのように考え、どのような行動をとるのだろうか。1948年1月30日、ガンディーはニューデリーで狂信的なヒンドゥー原理主義集団民族義勇団の一人によって暗殺された。3発のピストルの弾丸を撃ち込まれたとき、ガンディーは自らの額に手を当てた。これはイスラム教で「あなたを許す」という意味の動作である。そして、ガンディーは「おお、神よ」とつぶやいて事切れたという。
目次に戻る