高島靖男のインド日記
5月16日(土)デリー・アグラへの旅(4)
  2泊3日最終日の朝が来た。夕方、6時の便なのでたっぷり時間があった。その日が辛く長い一日になるなんて思ってもみなかったのである。車には9時に迎えに来てもらうようにお願いしていた。最初に向かったのはクトゥブ・ミーナール(Qutb Minar)<注1>である。場所的にはデリーの中心(コンノート・プレース)から南に12、13キロ下ったところにある。
  入場料250ルピーを払って中へ入った。全く遮蔽物がない屋外なので直射日光が厳しい。だがそんなことは塔を見た時忘れてしまった。
  よくこんなものを建てたものだとしばらくぼっとして見とれてしまった。それほど素晴らしい。写真を撮りまくったのでご覧いただきたい。
  塔の周辺の建造物はギリシャ、ローマ神話のような風情である。ヨーロッパへ紛れ込んだかのような錯覚に陥る。これを見てやはり西洋と中東の文化は交流していたのだ、と改めて思った。
クトゥブ・ミーナール塔、写真をクリックするとスライドショウ
  アラーイー塔の台座は巨大である。傍にいたインド人の監視官に「Very Impressive(とても感動的)」と声をかけた。すると彼は「Yes, it is(そのとおりだ)」といかにも誇らしげに胸を張った。
  この3日間の旅で疑問に思ったのは、世界遺産に登録されている建造物は皆イスラム文化のものである。ヒンズー教のものではない。
  お陰で国、国民は潤っているのにイスラム教徒を差別する、というのはどうも納得がゆかないのである。
アラーイー塔の台座

  またデリーの中心部へ戻ってもらうように運転手さんにお願いした。すると運転手さんが「近くに案内したい所がある」というので連れて行ってもらった。サフダージュング廟(Safdarjung Tomb)である。まったく期待もしていなかったがこれまた素晴らしい所であった。「地球の歩き方」には掲載されていない場所である。残念ながら全く情報がないのでサフダージュングがどのような人物であったかご紹介できない。運転手さんが英語が出来れば、と悔やまれる。
  入場料は100ルピーである。500ルピーを出したが、愛想もなく「お釣りはないので100ルピーで払ってくれ」と言う。こちらは500ルピーではいろいろ困るので両替も兼ねて出したのだが上手くいかなった。入口の暗闇からサフダージュング廟が見える。フマユーン廟に負けず劣らずの素晴らしさだ。デリーにはこんな素晴らしい建造物が街中いたるところにあるのか?と思ってしまう。
  暗闇を抜けるとそこは異国情緒あふれる南国のようである。中近東の“とある場所”に迷い込んだような気持ちになる。
  廟に入ってみる。数人のインド人女性が涼を取りながら、祈りを捧げている。ここはビッグネームでないので混んでいないのがいい。ビッグネームでない、と書いたが欧州人らしい人たちを沢山見かけたので知らないのは私だけなのかもしれないが・・・
  建築物を見たあと、木陰(大半がヤシである)で涼を取っていると風がさわやかでウトウトと眠くなってしまった。まさに砂漠のオアシスという感じである。
サフダージュング廟の内部、写真をクリックするとスライドショウ

 次に向かったのはコンノート・プレイスの近くにある。ジャンタル・マンタル天文台(Jantar Mantar Observatory)<注2>である。入場料100ルピーを払って中に入る。デリーの街の真ん中にある奇妙な建造物群である。一見すると遊園地のようにも見える。しかもこれが300年も前に造られた、というのに驚いてしまう。ピカソ、岡本太郎の芸術展?とも思えるような建造物ばかりである。言葉の説明より写真をご覧いただきたい。インド人の天文知識に感動を覚える。
<注2>
  ムガル皇帝に天文観測の才能を買われて暦や星図の改修にあたったジャイプールのマハラジャ・サワイ・ジャイ・シンによって1725年に建造された天文台である。観測儀はレンガ造りの土台に石灰のしっくいを塗ったもので、日時計、星座議、子午線儀など巨大な建造物が整然と並んでいる。ジャイプールにある、更に大きなジャンタル・マンタル天文台は、その後、ジャイ・シンが地元に造ったものである。観測機は滑り台のようなもの、オブジェにしか見えない奇怪な形のもの、星座別に十二基あったりと様々。
ジャンダル・マンタル天文台、写真をクリックするとスライドショウ
  コンノート・プレース近くのマクドナルドで昼食を終えると午後3時過ぎであった。もっと見たい所はあったが体力が持たない。少し早いが空港へ行くこととした。3時40分空港に到着。無事にデリー・アグラの旅は終了、メデタシ、メデタシである。航空券は時間変更が聞かないものを買ってしまっていた。。6時の便であるからこれから約2時間待つことになる訳だ。だが、アニタさんからは「6時の飛行機だったら7時に飛べばラッキーです」と言われていた。ということはこれから3時間待つ、ということを意味する。「早い便にしておけばよかった!」と思ったが、後の祭りである。

   5時40分である。空港ロビーで出発便の電光掲示を見る。全く表示がない。だんだん不安にあってきた。係の人に聞くことにした。「遅れている。20分くらい待ってください」とそっけない返事。6時20分になった。全く掲示されない。港内アナウンスが流れている。「ムンバイ行きインド航空xxx便、ゲート3へお進みください」と言っているではないか。「おい、おい、電光掲示板に表示されずにいきなり港内アナウンスなんて不親切!」と思ったがそんなことを言っている場合ではない。急いでゲート3に行った。ほんの数人しか来ていない。大半の人は気がついていないのだ。これがインド方式?念のために電光掲示板を見た。今ごろ掲示された。

空港内マクドナルド 空港内インターネット・キオスク

  午後7時、飛行機はデリーを飛び立った。アニタさんの言うとおり1時間遅れである。席についた。インド人の特徴なのであろうか、ほぼ全員が機内にもかかわらず携帯で話しまくっている。外で話しは出来なかったの?私の前の女性はどうも友だちとムンバイで夕食の約束をしていたらしい。「あの、飛行機が今から飛び立つから今日のディナーは出来ない」と言っている。すると相手がどうしても今夜会いたい、と言っているらしい。「わかった、それじゃ9時ごろムンバイに到着したら電話する」と携帯を切った。ななめ横の男性は今日、裁判でもあったのだろうか。興奮している。「弁護士がまったく役立たずで、今日は会社を休んで来たのに全く進展がない」とイキリタッテいる。公衆電話でもかけにきているつもりなのだろうか?

  ほぼ9時にムンバイに到着した。例のごとくターミナルとは離れているため、空港ビルから外に出たのは9時30分くらいであった。ヒテーシュさんに「プリペイド・タクシーがあるのでそれに乗るといいですよ」とアドバイスをもらっていた。プリペイド・タクシーの表示を探すがどこにも見当たらない。すると若者が「プリペイド・タクシー?」と聞いてきた。「そうだ」と答えると「ついて来い」、という合図をする。おかしいな?と思ったがついていった。タクシーが待っていた。いきなり荷物を車に乗せようとする。「おいおい、料金はいくらだ」と言うと「料金表は乗ったら見せるから、さあ乗って」と言う。「料金表を見せないなら乗らない」とつっぱねた。相手はしぶしぶ料金表を見せた。ビックリである。800ルピーと表示されている。「馬鹿を言うな、乗らない」と言って、元来た道を戻った。若者が追ってくる「いくらだったらOKか」「250ルピーだ」。「勘弁してくれ。エアコンもついたタクシーで250ルピーはないだろう。350ルピーではどうか」と言ってきた。「お前の話は信用できないからダメだ」とピシャリと断り、空港へ戻った。一旦、乗ったらどうなるかしれたものではない。

  リキシャ乗場へ行った。「ボリバリ。250ルピーでどうだ」と言った。リキシャの運転手たちがヒンディー語で相談している。すると中の一人が「OK」と言って私を引っ張った。商談成立。空港からボリバリ、250ルピー。先方にはあまり儲かる話ではない。リキシャが走り出した。「ボリバリ・ウェスト?イースト?」と聞いてきた。「イースト、ラヘジャ」と答えると、運転手は「うん、うん」と頷いた。不安ではあるが辿り着くことを祈るのみである。
  ポケットを探った。500ルピーと100ルピーばかりである。50ルピーはない。「リキシャでお釣りはくれないので事前に準備しておいた方がいいですよ」とヒテーシュさんにアドバスを受けていた。失敗である。40分ほどの乗車であったが、無事に自宅前に到着。300ルピーを出した。「チェンジ(お釣り)?」と聞いてみた。「ノーチェンジ(お釣りはない)」とニヤリとされてしまった。予想通りである。運転手の肩をたたき「Thank You」と言って別れた。無事に帰れたことで、よし!としよう。

  家に入ったのは10時20分である。どっと疲れが出た。明日から会社である。シャワーを浴びて早く寝ることとした。11時には眠りについたと思われる。ところが夜中1時30分である。急激な腹痛が襲った。寝ていられない。トイレに駆け込んだ。と言うか余りの激痛に這ってトイレに行った。下痢である。胃が錐で刺されるように痛い。油汗が滴り落ちる。実は前日の夜中も胃が痛く、ポカリスエットを飲んだのである。その時は1時間ほどで痛みは治まり眠りについた。大げさだが死の恐怖というのを感じた。誰もこの夜中に助けに来てくれる人はいない。ヒテーシュさんを起こす訳にはいかない。取り敢えず、ポカリスエットとブスコバン(胃痛を抑える薬)を飲んでベッドになだれ込んだ。痛みは治まらない。ずっと痛みは朝まで続いた。6時ごろになってやっと痛みが治まってきた。原因はわかっている。この3日間気が緩み、インドの水、食べ物を飲んだり、食べたりしてしまったのである。ムンバイに居る時は絶対、ナマ水は飲まない、ローカルの食べ物もある程度、安心できる店で食べる、というようにしていたのであるが、デリーではこのルールを守らなかった。更に、日射病にもかかって体力が極端に落ちたためであろう。下痢、胃痛が急激に体を襲ってきたのである。いやはや長い一日であった。

  誰にも告げる訳にもいかず、通常どおり出勤した。ヒテーシュさん始め生徒の誰も私が七転八倒の苦しみをした翌朝に授業をしているとは知らない。皆「先生、タージはどうでしたか」と聞いてくる。「とてもよかったよ」と答えた。でも心の中では「インドで生活することは大変」と呟いた。
目次に戻る