ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.96 公衆衛生学会の「意見書」に期待する
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吉田基義さんの作品です
 今年は私の大学医学部卒後ちょうど50周年に当たります。卒業したからといって直ちに一人前の医者になれるわけではありません。当時(昭和32(1957)年)は、一年間のインターン制度を経て医師国家試験に合格してやっと医師免許を取得し、いよいよ自分の専攻したい医局に入るというのが普通のコースでした。私は迷わず、臨床医ではなく公衆衛生学教室(大学院)への道を選びました。学生時代から「予防は治療に勝る」という真理を信奉していたからです。幸い尊敬する恩師の推薦をいただいて、国立公衆衛生院(現・国立保健医療科学院)のポストグラデュエイト・1年コース「正規医学科」を修了して公衆衛生修士MPH(1957年)にもなりました。

という訳で、私は50年も前から白衣を着ない医者を始めていたのです。当然、早くから日本公衆衛生学会に入会し、明治生命に入社してから数年間のブランクはあるものの、かれこれ40年以上もこの学会の会員を続けています。保険医学会(フルタイムの社医が構成メンバー)の会員のうち、公衆衛生学会の会員を兼ねておられる方々から選挙されて、学会評議員を10年以上務めさせていただいた経験もあるので、結構古株の一人だと自認しています。

さて「公衆衛生学会」と名称のよく似た「衛生学会」もあります。素人なら一体どこが違うのかちょっと区別がつかないのではないでしょうか。もともとわが国の近代的な公衆衛生は、明治期の伝染病対策として警察(取締り)行政から始まり、昭和初期の国民の体位向上を目指した保健行政へと発展しますが、第二次大戦後画期的な変貌を遂げました。それを象徴するのが、「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(国民の生存権)と、「社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めねばならない」(国の社会的責任)を謳った日本国憲法第25条の規定です。ちょうどこの憲法が公布された昭和22年に日本公衆衛生学会も誕生しているのです。まさに流行語になった感すらある戦後レジームのひとつです。

衛生学会との大きな違いのひとつに、公衆衛生学会の方は、学会ですから大学など本ちゃんの研究者がいるのはもちろんですが、公衆衛生に直接従事している現場の行政職の会員も大勢いるということです。分かり易く言うと、保健所勤務の医師、歯科医師を初め、保健師、看護師、栄養士、検査技師などいろんな職種が構成要員ですから、マンモス学会になっています。当然のことながら、学会の理事、評議員に行政職の会員が多く選出されています。

もうひとつの相違点として、この学会は集団疫学を基本的な研究方法としていると言っても過言ではありません。(衛生学会の方も、疫学的な研究手法を使いますが、より基礎医学的で実験医学的な手法が中心になっているようです)

若い頃公衆衛生院で、ハーヴァード大学留学から戻られて間もない新進気鋭の故平山雄・理論疫学室長(当時、後の国立がんセンター疫学部長)が、「疫学は公衆衛生の診断学だ」と熱っぽく講義されたのを今でも懐かしく思い出します。もともと流行病の原因を追求する学問としてスタートしたのが疫学ですが、現代の公衆衛生の諸課題を解決するための診断学として活用できるのです。問題の重要性や原因追求に威力を発揮するだけでなく、対策の効果判定にも大いに役立つ優れものです。今風に言うなら、平山先生は「根拠に基づく公衆衛生」Evidence based Public Health を、若い学生に説かれたのでした。

公衆衛生学会の機関雑誌、「日本公衆衛生雑誌」(「学」という文字のないことにご注目ください)の今年の5月号(第54巻第5号)の冒頭に、実成文彦・理事長名で、厚生労働省健康局長宛てに学会としての「意見書」(3月23日付)を提出したことが報告され、その全文が掲載されました。厚生労働省の施策として平成20年度から実施の運びとなる新たな「標準的な健診・保健指導プログラム」に対する要望付きの意見書です。

わが国が世界で最も広範に健診を実施している、いわゆる「健診大国」であることはよく知られていますが、来年度からはこのプログラムの基本的な考え方に従って、糖尿病等の生活習慣病、とりわけメタボリックシンドローム該当者・予備軍を減少させるため、保健指導を必要とする者を的確に抽出し、「特定保健指導」を行うことになります。これに対する学会としての公式見解ともいうべき意見書ですが、作成の中心になったのは、学会・専門部会の「生活習慣病対策専門委員会」(委員長 上島弘嗣・滋賀医科大学教授)です。

専門的な表現もあってそのままでは分かり辛いので、意見書を私なりに要約してご披露しますと、次のとおりです。

まず、「プログラム」が全体としてメタボリックシンドローム対策に偏重していることに対して、批判的な姿勢をとっています。学会の幹部には厚生労働省関係者が入っているのに、行政官庁べったりの意見書ではないことが印象的です。

具体的には、
 @喫煙者への保健指導が軽視されているので、メタボリックシンドロームの有無にかかわらず、「禁煙指導」を実施すること。健診の標準的な質問票に「禁煙意志」に関する質問を加えて、禁煙の動機付けを促す介入が必要であること。

A内臓肥満の重要性は評価しながらも、高血圧、糖尿病、高コレステロール血症などの確立した循環器疾患の危険因子に対する保健指導は、内臓脂肪蓄積の有無とは独立して行うこと。

B高齢者には、低栄養ややせなどにも配慮して、BMIとLDLコレステロールについては下限値を設定して、食生活指導を行うこと。

Cもともと適切な生活習慣の改善を目指すもので、健診結果から不用意な薬物治療を行うべきではないこと。

D生活習慣は、都市・農村などの地域や職域の実情によって異なっていて、重視する対策の視点も全国一律ではないので、それぞれの集団の特質、実情を考慮した対策が望ましいこと。

 などを挙げて、すでに平成12(2000)年からスターとしている健康増進法にに基づく、「21世紀における国民健康づくり運動(健康日本21)」の中間評価が不十分な重要項目については、引き続きその対策を実施して、目標値に近づける努力が必要だと要望しています。

 以前、メタボリック症候群を取り上げた際に私が危惧したと同じことを、専門家の視点から指摘していますので、嬉しく思っています。先日も毎日新聞(7月7日付)の「闘論:メタボ症候群の基準」で、「プログラム」による新健診制度が発足すると、メタボリックシンドロームの基準にてらして、男性の6割、女性の5割が受診勧奨の対象となり、その全員が医療機関を受診するなら、医療費が現状よりも5兆円も増えると予想する大櫛陽一・東海大学教授の見解が報じられました。

今のところこの意見書についてはマスコミも取り上げていませんし、要望を受けたはずの厚生労働省からも何らかの反応が出たという話も聞こえて来ません。今年の10月に松山市で開催が予定されている第66回公衆衛生学会総会(学会長 小西正光・愛媛大学教授)のテーマは、「地域保健 ― その原点に返り未来を展望する ― 」です。「健康日本21」の目標達成は地方自治体の地道な努力なしには到底不可能で、どこまで本気に取り組んでゆくかが問われるはずです。今年の総会での実りのある検討結果を期待しているのは、私だけではないでしょう。

    (2007年7月25日)


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