ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.94 五木寛之の現代「養生訓」
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 五木寛之という直木賞作家のことは先刻ご存じのことと思います。私と同年(昭和7年)生まれという以外まったく共通点はありません。完全リタイアしてたまたま見た寺院巡りのテレビ番組に、彼が解説者として登場してからのご縁です。たしか彼は40歳代に、執筆活動を一時中断し、龍谷大学に入学して本格的に仏教史を学んだという経歴の持ち主だけに、この番組は適役だったと思います。私の方は仏教徒どころか、今のところ宗教とはまったく無縁、仏教美術の素養も皆無ですから、中味はともかく彼の容貌の若々しさに圧倒されたのでした。中肉中背で背筋をきちんと伸ばした姿勢もそうですが、何よりも端正な顔立ちに白髪一本ない、ふさふさとした豊かなオールバックの長髪には驚いたのです。中年過ぎから額が後退し始め、年々白髪が目立ち髪の毛が薄くなってゆく自分と見比べて、これが同い年かと羨ましくもあり彼の若さの秘密を知りたいという衝動に駆られたのでした。

そんな彼が「養生の実技−つよいカラダでなく−」(角川oneテーマ21、2004年12月)を書き下ろしたのです。「青春作家」というイメージが定着している五木寛之には、このような実用書は似つかわしくないというファンもいたはずです。ほぼ同じころ、近藤誠・慶応大講師(「患者よ、がんと闘うな」の著者)との対談が文藝春秋2005年2月号に掲載されました。直ちに読んだことは言うまでもありません。

まず豊かな髪の毛は、数ヶ月にいっぺんしか洗髪しないというので、本当かなと思ってしまいます。昔は盆暮れに洗っていたようですが、さすがに周りから「そりゃひどい」と言われて、やがて春夏秋冬に一度、最近は1か月半に一回は洗っているそうです。洗わないでいると白いフケが出ますが、1か月もすると黒いフケになって目立たないから黒い服も着れるとか、実は「路上生活者に禿頭なし」という真理を発見したと笑っています。

この話でお分かりのように、日常の生活習慣の「改善」を目指さないのが五木流の「なまけもの養生法」です。「早起き三文の徳」で健康にもよいと教わったはずですが、彼は朝7時に就寝、午後起床という生活を何十年も続けています。まったく<反>養生訓の実践者です。作家という職業上の習慣を頑固に維持しているわけです。

体重についても、V字型の欧米の理想的な体型と違って、東洋では布袋、大黒のようなべんべんたる太鼓腹で、下膨れのA字型が理想的な体型ということことが、お寺を巡ってみるとよくわかるとのことです。したがって、一般に言われる「標準体重」とは、「美容体重」であって、やや太り気味の方が健康的だとも言っています。小太りの長命学提唱者の私にとってわが意を得たり、とにやりとしてしまいます。

彼は治療についても厳しい見方をしていて、病院は病気の巣だからできるだけ近づかない方がよく、病院にいきだすとくせになる、とも言っています。実際この50年間、保険料だけ払って健康保険証を使ったことがないそうです。保険証を使ったからその分儲かったと思う人はいないし、できれば誰しも保険証など使わずに生きていきたいはずです、とも言い切っています。彼の夫人が臨床医だということを何処かで読んだことがあります。だから保険証も不要なのかと思うのは下衆の勘ぐりでしょうか。

近藤誠は対談のなかで、自分ががん診療の場でしばしば採用する「様子見」と五木寛之の提唱する養生とは、「放っておく」というのではなく、どちらも「からだの声を聴く」という点、ある意味で共通していると述べています。

それに応えて五木は、釈迦の「天上天下唯我独尊」や親鸞の「われ一人がため」に倣って、自分も養生を考えるにあたっては類型としては生きまいと決めたと言い、「自分の体調を感じられないようでは、健康も養生もない、身体の発する「身体語」を学び、その声に謙虚に耳を傾けて身体と対話することが「養生の基本」なのだと結論しています。とは申しても、誰しも彼の真似は出来そうにありませんが。

つづいて今春、知る人ぞ知る帯津良一・帯津三敬病院名誉院長、日本ホリスティック医学協会長との問答形式で、五木流養生訓の第2弾「健康問答 本当のところはどうなのか? 本音で語る現代養生訓」(平凡社 2007年4月)が上梓されました。この本のなかで彼が到達した結論は、「健康法は『これ一つ』ではダメ」ということです。

日本人は古来、一筋の道とか、一事を極める、というモノラルな姿勢が尊重され、物事をシンプルに考えることが美徳だったと説き起こします。「納豆騒ぎ」のテレビ番組やメタボリック・シンドロームを例にして、誰もが「これ一つ」に走りがちですが、現実はそんなに簡単ではなく複雑さに満ちています。しかし世の中のことは、本当はなに一つ、確実にわかってはいなのだ。現代の医学、栄養学、心理学など、すべての学問や理論も、人間でいうならまだ小学生の域にも達していないのではないか。それを明快に割り切ったいい方をするからおかしくなるのだ。「これ一つ」ではダメなのだといっても、できるだけ多くの視点からものを見るというのにも限りがあります。そこで、せめて二つの立場から考えてみるというぐらいが精一杯だろうとして、彼の疑問を「名医」の帯津良一にぶっつけてみますと、「どちらともいえない」という返事が返ってくることがあって、とても信頼できると感じておられます。

私たちは心身が疲れているときに、「これ一つ」に心惹かれることが多く、つい気弱になってしまうと、スパッと断定的で簡単明瞭ないい方にすがりつきたくなるのが人間です。牛乳論争でも、良い牛乳=牛乳に向いた体 もあれば、悪い牛乳=体質的に合わない人 もいます。それを見つけるのは当人の責任だ、としています。

ただし、個人の体験や感性を重視するあまり、「医学にかぎらず、統計はすべてフィクションである。統計はおもしろいゲーム程度に考えたほうがいい」という彼の考え方に私は賛成できません。「統計医者」あるいは「統計疫学者」として長年「白衣を着ない医者」を通して来た人間だから反対するのではないのです。もちろん「これ一つ」を主張するために統計を誤用したり、悪用することは絶対に避けるべきです。統計で騙す法というノウハウがあるくらいです。

統計学は立派な近代科学ですし、生命保険事業も統計学なしには成り立ちません。EBM(根拠に基づく医療)も統計学あってこそ実践できるのです。また病気の原因が単純なものではなく、多くの要因が複雑に絡み合っていることも十分承知しています。いわゆるマルチファクター・マルチディジーズという考え方も今では一般化しています。統計データの解析にはコンピュータを活用したより高度な手法が次々に開発され(多変量解析と呼ばれています)、病気の全体像からどの要因がより重要かを決めることもできます。こうして個人の努力だけに依存するのではなく、集団的に予防対策を講じることも可能な時代を迎えています。

五木流の養生法は、彼にしか書けないし、「これ一つ」で走り出す国民的な健康ブームに対する警鐘として十分傾聴に値するものと高く評価しています。

    (2007年6月27日)


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