ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.9 日本人オリジナルの脳卒中研究「久山町研究」
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  長らく国民死因のトップの座にあった結核は、昭和26(1951)年、脳卒中にその座を明け渡すことになります。この年から30年後の1981年にがんが死因順位の1位になるまで、脳卒中は文字通りわが国の国民病でした。1950年当時のWHO統計で日本人の脳卒中死亡率は世界33カ国中トップであり、わが国はまさに脳卒中大国だったのです。

  病型については、皆さんも先刻ご承知のとおり、脳出血、脳梗塞、くも膜下出血、その他の4つに分類するのが普通ですが、このうち「脳出血」が群を抜いて高率だったのです。

 当時、「東の沖中、西の勝木」と並び称された九州大学第二内科教授・勝木司馬之助は、神経学の大家(アメリカ神経学会での日本人会員もこの二人だけ)でした。沖中重雄の方は退官記念講演で自らの誤診率を公表して有名になった東大教授で、ご記憶の方も多いでしょう。

 1960年に訪米した勝木は、米国の専門医から「なぜ日本人に脳卒中が多いのか、それも脳出血が著しく多い(脳梗塞の10倍以上)のはどうしてなのか」と度々質問されますが、これに答えるに十分な研究資料を持っていなかったのです。

 追っかけるように、1961年にローマで開催された国際会議で、米国ミネソタの2人の疫学者から、脳卒中死亡率が極めて高いという日本の特殊性は、民族的(いまふうに言えばDNA)特性というより、環境、あるいは診断を含む人工産物 artifact によるもの(平たく言うと誤診による)と思われると決め付けられるのです。

 不名誉極まりないこの見解に科学的な反証をするためには、環境要因の差はもちろんのこと、なによりも脳卒中死亡率の数字が日本人医師の診断、なかでも死亡診断書作製上の習慣に基づくバイアスであるか否かを明らかにする必要があったのです。それには一般住民のなか(大学病院などの研究機関ではなく)での脳卒中の発生頻度を正確に把握しなければなりません。現在のような画像診断(CT,MRIなど)技術が発達していなかった当時、病型分類までの正確な診断をするには死後の病理解剖(剖検)をするしかなかったと言えます。

 勝木の弟子のお一人で、ご一緒に日本循環器管理研究協議会(日循協)のお世話をさせていただいた上田一雄理事長はこう述懐しておられます。「ここに死亡例はもれなく剖検するという途方もない命題が課せられたのである。」

 こうして勝木教授が研究対象地域として選んだ福岡県粕屋郡久山町の役場を訪れて、「脳卒中の追跡研究」のために、一般住民の集団検診を継続的に行ないたい(ただし、最初は剖検にまで触れずに)と正式に町側に申し出たのは昭和36(1961)年3月のことです。米国マサチューセッツのフラミンガム・スタディと並んで、世界に冠たる循環器疾患の前向きコホートスタディ「久山町研究」がスタートを切ったのです。

 「コホート」というのは古代ローマの歩兵軍団のことですが、久山町の特定人口集団をコホートとして長期的に継続して観察する研究で、「追跡」という言葉の響きがよくないので、いまではこう呼ぶのがふつうです。もちろん、私たちがやってきた生命保険被保険者の長期にわたる死亡率研究もコホートスタディそのものです。

 さて、久山町が選ばれた理由としては、福岡市に隣接する農村で九大病院から15キロほど離れた地理的利便性、年齢、職業構成が日本全国に類似しているという普遍性、人口の流出入が少ない固定性などが上げられます。すでに40年を超える長期研究がいまも継続しているのは、何と言っても、九大第二内科の研究者たちの情熱があってこそです。なかでも、「第七研究室」と呼ばれる久山町研究室の初代室長・廣田安夫(元・九州歯科大教授)を初めとする一群の研究者のご苦労は並大抵のものではありませんでした。当然のことながら、剖検に難色を示す住民側を説得して、死亡者が出ると昼夜を問わず遺体を引き取りに駆け付け、九大病理学教室までの運び屋をした、いわゆる「カンオケかつぎ」の医師たちがいたのです。

 巡回検診はもとより、地元開業医との連携、必要な患者に対する九大病院やその関連病院への紹介入院など、研究のための研究ではない、住民への暖かい医療サービスがあったことは言うまでもありません。勝木の手腕で米国立衛生研究所NIHの7年間の潤沢な研究費援助があったことも見逃せませんが、九大第二内科あげての取り組みには心底敬意を表します。

 幸い、住民サイドの理解と、行政トップのリーダーシップや先見性があってこそこの研究は成功したのです。研究開始3年目には、町長、町議会、宗教家、住民自らの発想で組織された死後剖検を承諾する会が発足し、以来、90%の大台に乗せる剖検率が実現し、その後も99%という高い消息判明率と相まって、高い剖検率を堅持し続けています。何と、20年目には「わたしたち久山町住民は、世のため人のため誇りをもって剖検をうけます」と書かれた「健康宣言」すら出されています。

 こんな話もあります。久山町にある大きなお寺の住職・亀井恵達が、親鸞上人の言行録の一節、「某親鸞閉眼せば、加茂川に入れて魚に与ふべし」をひいて、医学のために遺体にメスがはいってもいっこう成仏の妨げにはならないと説いて回り、町の人々の精神的不安を落ち着かせようとされました。

 久山町研究がスタートして、5年目に初めてオリジナル論文が発表され、勝木が答えられなかった疑問については、この論文で当時すでに日本でも脳出血死亡と脳梗塞死亡がほぼ同数であることが判明します。つまり、米国研究者から指摘された病型診断の誤りは認めざるを得ないという結論です。以後膨大な研究成果を生み出してゆきますが、研究着手のきっかけとなった脳卒中の病型別発症・死亡率と、その時代的変遷(因みに2001年の国民死亡統計では、脳出血対脳梗塞は1:2.6と梗塞が優位です)は、科学的なデータによって解明されたのでした。わが国が単なる脳卒中大国に甘んじることなく、脳卒中疫学の先進国として認められることになる記念碑的な研究に発展したと言っても言い過ぎではありません。

 研究成果は、循環器疾患(脳卒中と冠状動脈疾患)の危険因子、一般住民の高血圧の特徴や管理効果、肥満、糖尿病、血清脂質などの代謝異常の特性と循環器疾患の危険因子としての意義、人口の高齢化に伴い、老年者の生理・生化学的な特徴等々、つぎつぎと広がって枚挙にいとまがないくらいです。そのすべてが、国際的に通用する日本人オリジナルの研究データなのです。

 久山町研究にもまた多くのドラマがあります。とても私の拙い筆では書き表せません。興味をお持ちの方は、祢津加奈子「剖検率100%の町 九州大学久山町研究室との40年」(2001年、ライフサイエンス出版)をお勧めします。蛇足ですが、この作品を基に九州放送がテレビ放映をして、2001年度科学技術映像祭 最優秀作品賞(内閣総理大臣賞)を受賞していることも付け加えておきます。

                                             (2003年12月11日)

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