ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.87 自殺ゼロを達成した町
Google検索にキーワードを入力すると関連するページを見ることができます。
Google
WWW を検索 ドクター塚本ページを検索
 
 昨年の平成18(2006)年は自殺予防元年になるだろうと言われています。防衛医科大学校・高橋祥友教授(精神医学)から、内容的にはよくまとまっていると評価されている「自殺対策基本法」が成立・施行されて、国際的に遅れをとっているわが国がようやく本腰をいれて自殺予防対策へのスタートを切った年だからです。それもそのはず、1998年には前年に比べて一気に8,500人も増えて、初めて自殺者が3万人の大台に乗ってからは、ずっと3万人を超えているという深刻な事態が続いているからです。

2005年の日本の自殺総数は30,553人で、人口10万対24.2と国際比較でも他のG7諸国よりはるかに高い自殺率です。なかでも秋田県は、1989年以来、93年と94年の2年だけ2位になりましたが、連続して自殺率が全国一高い県です(447人、人口10万対39.1)。寺田典城・秋田県知事をして「これは汚名です」と嘆かすほどです。隣県の青森、岩手両県とともに自殺率ワースト3となっています。これら3県は、脳卒中死亡率ががん死亡率に首位の座を譲ってから久しい今日でも、依然として脳卒中死亡率(男)はワースト3のままなのですから県知事のお気持ちがよく分かります。

では豊な自然に囲まれた北東北3県でなぜ自殺が多いのか、まず社会疫学の専門家である本橋豊・秋田大学医学部教授(公衆衛生学)の説をご紹介しましょう。彼は秋田県固有の要因というよりは、北東北地域に共通する基礎的要因として、「気候学的要因」(寒さ、日照量不足、降雪量の多さ)を挙げています。日照量不足はメラトニン分泌を変化させ、うつ的な気分を助長させるものと考えられますし、降雪量の多さは高齢者でとくに冬期間の外出頻度を低下させ、ひいては社会活動を低下させます。しかしこの要因だけでは、1960年代までの高くなかった自殺率順位を説明できません。

さらに、高度経済成長の波から取り残されたこの地域では、過疎化と高齢化が急速に進行して、農村部のコミュニティは次第に空洞化して行ったのです。高齢者は身体的な機能低下に加えて、心理的な孤独、同居における家族関係の不調、自己完結的ストレス対処行動、社会的支援の不足、医療資源の不足など、多くの社会的要因も絡まり合って自殺率を高めてしまったのです(本橋豊編「秋田大学自殺予防研究プロジェクト 心といのちの処方箋」秋田魁新報社 2005年3月刊)。

この「秋田県の謎」に迫ろうと取材を重ねてきたジャーナリスト・西所正道氏のルポ(文藝春秋 2006年1月号)によると、秋田の「ええふりこき」という県民性の問題を指摘する方言学の研究者もいると言います。つまり「ええかっこしい」とか「見栄っ張り」のため社会を窮屈にしたり、辛くても我慢し弱音を吐かなで自分で背負い込んでしまうために自殺に追い込まれるというのです(本橋教授は、自殺多発地帯でなかった時代があったことからこの説を否定していますが)。

また精神科医の清水徹男・秋田大学教授は、アルコールの摂取量の多さ(新潟県に次いで第2位)と自殺との関連性を指摘する一人です。自殺する人の7、8割は何らかの精神障害があるそうで、その精神障害を有する自殺者のうち、6〜8割がうつ病ないしうつ状態で、その1,2割がアルコール依存症だとも言います(日本にはエビデンスがないと断っていますが)。清水教授はアルコール依存症の患者は高い頻度でうつ病に罹患するので、アルコール依存症、うつ病、自殺は「三つ子」のような関係にあるとも説明しています。

自殺の原因は単純ではなく、諸々の要因が重なり合っていると言うのが、西所氏の取材の結論です。一方、有機燐系殺虫剤への暴露が自殺と関係があるという、ケープタウン大学のL.ロンドン教授らの研究論文にヒントを得て、秋田県を取材したジャーナリスト・長谷川熙氏のルポもあります(アエラ2006年2月13日号)。要約すると、有機燐に暴露されると、神経毒性を現さない程度の微量でも脳内のセロトニン・レベルに異常を来たし、うつ状態になったり衝動性を帯びたりするというのです。わが国は世界でも突出した農薬大量消費国で、しかも小型無人ヘリによる低空での農薬散布(有人ヘリと違って民家のそばまで)が行われているので、容易に呼吸器を介して有機燐を体内に吸収していることが、自殺の多発に関連していると結論付けています。

これが本当なら、自殺の予防対策は簡単なはずです。私の同級生に秋田大学医学部・精神科にいた菱川泰夫名誉教授がいますので、早速問い合わせてみました。すぐに返事をくれて、自分の在職中には有機燐の自殺関与説は全くなかったし、秋田県庁・農政部、健康福祉部の調査でも秋田県における有機燐系農薬の使用量が大変少ないということでした。もちろん秋田大学・プロジェクトの研究でも有機燐説は登場しておりません。

では自殺は予防できるのでしょうか。かつての自殺多発国フィンランドは、国レベルの予防対策を推進して、10年以上かけて自殺率を3割減らした実績をもっています。高橋教授は自殺の名所、青木が原樹海での臨床経験から、@ 自殺につながりかねない心の病を早期に発見し、適切に治療して予防する「メディカルモデル」と、A 困ったときに助けを求めてもよい、そしてどこに助けを求めたらよいかという情報提供できる「コミュニティモデル」の2つを連携させて行くことが重要だと説明しています。

また高橋教授は、自殺予防には次の3段階があって、「自殺対策基本法」にはこれら3つの概念が盛り込まれているので評価できるとしています。

第1段階「プリベンション」:自殺につながりかねない要因に働きかけて、未然に予防すること。

第2段階「インターベンション」:今まさに起きつつある危険な行動に「介入」し、自殺を予防すること。

第3段階「ポストベンション」:不幸にして自殺が起こってしまったときに、遺された人びとをケアすること。

(2006年6月16日付 朝日新聞「私の視点」)


さて秋田県の取り組みですが、県知事の号令一下、自殺予防に意欲的な6つの町をモデル地区にして予防対策を推進した結果、この地区では指定前の2000年には人口4万4千人で28人の自殺者を出していたのが、05年には13人に減少させたのです。なかでもモデル地区の1つ藤里町では、2004年に17年ぶりに自殺者ゼロを達成したのです。秋田大学と協力しながら、講演会や意識調査を実施してきた地元のボランティア団体「心といのちを考える会」の活動があってこそなのです。「よってたもれ」というサロンもこの会が運営しているのですが、年間650人もの人が集い、他愛のない話をしたり、たまには悩みを訴えたりして効果をあげた、と取材者の西所氏はルポしています。

 このような地道で息の長い粘り強い取り組みが方々に拡がってゆくと、自殺予防は実現することができるのです。わが国の自殺率をせめて先進国並みのレベルにまで低下させたいものと期待しております。

                         (2007年3月14日)


ドクター塚本への連絡はここをクリックください。