ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.86 「満足死」の思想と実践
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 毎日、新聞の死亡記事には必ず目を通しています。さすがに70歳も半ばになりますと、自分より若くて亡くなる方が次第に増えてまいります。否でも応でもときどきは己の死を考えるようになりました。でも老化が確実にすすんで足腰の衰えを実感するものの、今のところ何とか日常生活をこなしており、入院、手術も未経験でさしたる重病感はないので、差し迫って深刻に死と向き合ってはおりません。その証拠というわけでもありませんが、何回か書きかけた遺書も未完で放置したままです。

 生物としてのヒトは必ず死にます。しかし、何時、何処で、いか様にと聞かれますと誰しも確実には答えられません(「だから生命保険が必要です」などと言うと、やはりお前は保険屋だからな、と笑われそうですが)。

同時に、しのび寄ってくる死の恐怖に対して、漠然とこんな死に方をしたいという願いを誰しも共通して持っているのではないでしょうか。

 いわゆる延命医療によって苦しまないで、妻や家族に見守られ、周囲の者に感謝しながら、安らかに眠るように、「人間らしく」死んで行きたい、という「尊厳死」願望です。あるいは、昔からの「ぽっくり信仰」も後を絶ちませんし、水野肇らの推奨する「ピンピンコロリPPK」(第13話ご参照)を理想とする死に方もあります。

 現在のわが国では、病院内での死亡が7割を超えています。なかには集中治療室ICUに収容され、家族から手も握ってもらえないまま医療器械に囲まれてスパゲッティ症候群の状態で死を迎えるケースがあることはご存知のとおりです。長生きへのあくなき欲望を無批判に肯定する風潮に、1分でも長く患者を生存させようとする硬直した医師の使命感と、医療側の経営上の圧力が加わって、命を延ばす技術だけが独り歩きして飛躍的に「進歩」した結果、今や簡単には死ねない時代が来たとも言われています。その反面、厚生労働省の推進する「在宅医療」政策も、患者無視の受け皿なしのままでは、単に医療費削減を狙ったものに過ぎないと批判されても仕方ありません。

 いかに死ぬかについて右往左往していた私にとって、タイミングよく今月、ノンフィクション作家の奥野修司によって足掛け4年にわたる密着取材に基づいて書き上げられた、「満足死 ― 寝たきりゼロの思想」(講談社現代新書)が発刊されました。飛びついて購入したことは言うまでもありません。主人公は「満足死」の提唱者かつ実践者の疋田善平医師(1921〜)です。一読してこんな医者がいたのか、という驚きの連続で読了するまで本を置くことは出来ませんでした。

 疋田先生は戦争中の1944年に医学校卒業後、陸軍軍医を経て、終戦後は国立京都病院に勤務、50歳で内科医長を最後に退職して、高知県佐賀町(現在は合併して黒潮町)の町営・拳の川診療所長として着任(1972年)しました。以来30年以上にわたって地域医療の第一線で活躍した臨床医です。80歳をとっくに超しているのに、声に張りがあり、体力も充実していてかくしゃくとしておられます。毎朝5時に起床、診察、往診、診察をつづけ、終わるのはいつも夜8時、9時でした。これを正月以外年中無休でやるのですから半端ではありません。「好きで楽しんでやっているんや」と仰るとおり、患者が本当に好きでないとできません。

 先生が赴任した当時、診療所の担当地域には約1500人の住民がいて、50人前後の寝たきり老人がいたのです。彼はそれぞれの家庭を訪問し、家庭でできるリハビリを根気よく指導することによって何と5人にまでに激減させます。現在では2人と限りなくゼロに近づけ、今後もこの数字を維持してゆく方策を考えていると言います。

 1987年、佐賀町では国民健康保険の保険料値下げを行い、以後16年も据え置いたままでした。佐賀町の医療費が削減できて、住民のより多くの人が満足死を実現できる環境が整ったという立派な証拠です。

 疋田先生は、病院から自宅に戻って死にたいと希望した一人の患者を看取った体験から、「本人の満足、家族の満足、医療側の満足」を満たした死こそ理想的な死と考えて、これを「満足死」と名付けて全国国保地域医療学会に初めて発表したのは1979年のことでした。すでに世界的に有名な「カレン・尊厳死裁判」後のことで、わが国でもそれまでの「安楽死」には安らかに死なせるという「殺人」のニュアンスが含まれることから、それに代わって「尊厳死」が市民権を得るようになっていましたし、1976年設立の日本安楽死協会も、83年には日本尊厳死協会と名称変更をすることになったのです。

 なんとも奇妙で泥臭い名前だと奥野が言う「満足死」について、他人から見て尊厳であるよりも、まず自分で満足することが疋田先生の基本概念です。だから尊厳死は二人称、三人称の死であるのに対して、満足死は一人称の死であり、建前が尊厳死とすれば、本音が満足死というわけです。ご本人の言葉を借りると、「施設に入って思うとおりに死ぬことができれば、それは尊厳死でしょう。しかし本人が望んでそこへ行くなら、それは満足死です。もし本人が望んでいないのに施設で死ぬことになれば、不満足の尊厳死であり、それは満足死ではないのです」。

 疋田先生は住民の満足死を叶えるために、30年も前から医者として予防医学に取り組んできて、満足死と予防医学を結びつけることによって、寝たきりゼロや在宅死亡率70%、さらに国保保険料の値下げという驚くべき成果を上げたのでした。詳細は奥野のルポルタージュをお読み願うしかないのですが、「お通夜教室」と称して、通夜の席で故人の病歴や死因についてこと細かく解説したり、健診データはもちろん、家族環境にいたるまで細かく記載された「一生涯一カルテ」方式を採用したのも彼流の予防医学の実践でした。明らかに厚生省の生活習慣病対策を先取りしたものです。

 彼の思想をひと言で表現するなら、体力に合わせて「死ぬまで働け」、そうすれば満足死が得られるというのです。言うは易く行なうは難し、のはずですが、この考え方を30年以上も頑固に貫き通し実践してきた疋田先生には、まったく頭が下がります。こんな医者がいてくれたら、これからの死は自分で創れると誰しも思わずにはおれません。その功績によって、保健文化賞、若月賞、高知県医療功労賞、全国国保地域医療学会・特別賞など数々の栄誉を受けておられるのは当然のことでしょう。

 しかし彼にも弱点があります。困ったことにこの国の行政には不可欠な根回しが全く出来ず、口を開くと10年先のことばかり。このために町当局からは無視されつづけました。また普及活動が不得手なために、満足死の思想を広める組織が実質的になかったので、疋田先生の実績がほとんど世間に知られなかったのです。現在ではようやくご自身が会長を務める「満足死の会」が全国的に立ち上がりつつあります。

 最後に、奥野は自著のPRをしながら、医療の質を落とさずに、医療費を下げるにはどうすればよいか、厚生労働省がこの命題に本気で取り組むつもりなら、まず現場を知ったうえで、謙虚に「満足死」に学ぶべきだろうと痛烈に警告しています(「本」2007年3月号 講談社刊)。

                        (2007年2月28日)


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